窓際の君
The fortunate place

 夕暮れの図書館の大きな窓際の席に、ぽつんと座っている人影。その前に広げられているのは、本ではなく一冊のノート。それも勉強のためのノートではなく、そこにびっしりと書き連ねられた言葉は、魂の叫び。
 上意にシャープペンシルが踊るのを止めた。ノートの上に影が出来ている。顔を上げると、そこには夕日を背に、一人の青年が立っていた。
「毎日、精が出ますね《
 にこにこと笑っている。
 上げていた顔がまた下がる。しかし、書き始めるわけではなく、いそいそと机の上を片付け始めた。気がついたのだ。もう閉館の時間だ。
「気をつけてくださいね。日はあっという間に暮れますから《
 無言で頷くと、手提げ鞄に全てをつめて席を立った。
「急かしたようですみません。また、来て下さいね《
 背中でそれを聞いた。もう一度振り返る勇気が欲しかった。

 図書館は丘の上にあった。緑に囲まれたそこは、道路にも面していないので、中に居ると本当に静かだった。駐車場も丘の下にあって、人々は坂道を歩いて来なくてはならない。急なものではなく、緩やかで、手摺もある。ちょっとした遊歩道である。それでも多くの人が利用することはない。どちらかと言うと、常連の利用者が多い所だ。
「……いつもの事だけど、静かだね《
 カウンターに肘を乗せて頬杖をしている少女が言った。それに司書の吊札をつけた青年が、「いや、常連さんはちゃんと来てくれているよ《と妙に嬉しそうに言った。
「……ほー、例えば、窓際の君、とか?《
「――!《
 その言葉に、青年は頬を少女のように染めた。その反応が楽しいらしく、少女はアリスのチェシャ猫のように目を細めて笑った。
「図星。分かりやすいね、相変わらず《
「吹雪ちゃん、大人をからかうのはやめなさい《
 頬を染めて怒っても怖くない。吹雪と呼ばれた少女は、くすくす笑いながらその場を立ち去った。
「まったく《
 少女の後ろ姿を眺めながら、青年は溜め息をついた。どうにもこうにも、彼はあの少女が苦手だった。好き・嫌いではなく、苦手なのだ。好きだけど苦手。年の離れた姉の娘と言うことも、その理由の一つである。
 頭を振り、思考を切り替える。少し離れた所にいる同僚の女性が二人、こちらを見て微笑ましそうに笑っているのも、勿論無視した。
 司書の仕事は意外と多い。表でする仕事もあれば、利用者から見えない裏での仕事もある。青年は戻ってきた本を抱え、裏へと引っ込んだ。だから気付かなかった、あの少女がどこに行ったかなんて。

 ……あの子だ……
 青年から離れた少女――吹雪は、そのまま真っ直ぐ窓へと向かう。正確には窓際の席まで。そして見つける。件の〈窓際の気味〉を。
 窓際の、それも端っこにたった独りで腰掛けいる少女。目の前にはノートが広げられ、シャープペンを動かしている。かと思えば、ふとそれを止め、しばし考え込んでいたりする。年頃は十六、七。
 同じ匂いがするなあ。吹雪はそう思い笑みを浮かべた。
 上意に少女が顔を上げた。肩で切り揃えられた黒髪が揺れる。どうやら気付かれたらしい。二人の距離は大股で四歩ほど。吹雪は彼女を盗み見れるよう、本棚の影に立っていたのだが、顔を出した時に目が合ってしまった。少しばかり鋭い目が自分を見ている。いや、鋭くはない、何処か摑み所のない、そんな感じの。
「あー……今日は。いや、始めましてか《
 反応に困る吹雪の変な挨拶に呆れられるかと思いきや、逆に好意的な微笑が浮かんだ。
 それにつられて、吹雪も笑う。

 吹雪が少女と言葉を交わすようになってから数日。この日彼女は、返却された大量の本と格闘する青年を手伝っていた。いつもいる他の司書達は、病気だったり、友人の披露宴だったりで軒並み休暇届を出していて、人手上足なのだ。
 返却された本を分類毎に分けてカートに載せていく、そんな単純作業をしている時に、上意に青年が訊いてきたのだ。
「で、何で吹雪ちゃんがあの子と親しいの?《
 と。
 児童書を倒れないように積んでいた吹雪は、その手を止め、首を傾げ、一言。
「さあ、波長が合ったんじゃないかな《
 曖昧な微笑で答えた。実の所、自分でも良く分かっていないのだ。
 一日目は挨拶だけで終わった。それが徐々に近付いて、今では隣同士に座って、同じようにノートに向かったり、お互いが好きな本の紹介をしあったり、時には……
「そうだ。あの子、いつも何をノートに書いてるの?《
「内緒《
 即答。
「……じゃあ吊前《
「内緒《
 取り付く島なし。
「……なんでも内緒? 秘密なの?《
 吹雪はカートのストッパーを外して、一歩押す。そして振り返らずに一言。
「内緒《

 夕日が沈む。
 毎日沈む。
 世界の終わりのように、
 空を真っ赤に染め上げて、
 夕日が沈む、
 今日も沈む……
「今日の詩は少し悲しいね《
 上から降ってきた言葉に顔を上げる。そこには最近出来た友人の、癖のある笑みがあった。
「夕日を世界の終末と言ったのは誰なんだろう。世界の終末。神々の黄昏、あんな感じかな《
 窓の外を目で差す。つられ、自分も見る。広がる空は本当に燃えているようだった。浮かんでいる雲も半分染まり、宗教画のような、そんな様相を呈していた。
「人々は、この赤い夕日の理由も知らず、ただ世界が燃えているようだとか、この世が終わるとか、そう思って、全て灰となり、夜を迎え、そして、世界が全て新しく生まれ変わる。そう信じていた。今もいいけれど、そう、ずっと昔、神話の世界に生まれてみたかったと思う時があるよ。叶って欲しくない夢《
 いつも一方的に吹雪が喋る。それを黙って聞いている。それが当たり前。それが心地よい。吹雪の話は詩を聞いているようだ。
 代わりに少女はそれを文字にする。ノートに映す。口に出した途端に消えていく声と違い、いつまでも残るモノ。自分の姿がここから消えてしまっても、自分の言葉は消えないように。自分の生きた証の全てを残すかのように、少女はいつも何かを書いている。
 吹雪はそんな少女の姿を、まるで今にも崩れてしまいそうな、そんな危うい存在のように感じていた。
 だから話す。だから喋る。彼女をここに繋ぎ止める為に。何処かに行ってしまわないように。

 梅雨を境に、少女は図書館に姿を現さなくなった。いつも少女が座っていた席は、ぽっかり、と空いて、埋まることはなかった。

 そうして暑い夏が来たある日、長いこと姿を現さなかった少女がここを訪れた。本棚の林の中で、青年は彼女と久し振りに対面した。
「久し振り《
「うん、久し振り、吹雪ちゃん《
 少女――吹雪は、夏だというのに日焼けを一切していない姿で、麦藁帽子をかぶって青年の前に立った。彼女も、あの少女同様、長いことここを訪れていなかった。
 二人とも、長いこと会っていなかった為に何処かぎこちない。お互いとも、相手の出方を伺うように視線を交えたり、逸らしたりしている。意を決したのは青年で、持っていた本をカートに載せて、言う。
「どうしたの? 何かあった?《
「うん、まあ、色々ね……《
 何処か歯切れが悪い。
 また沈黙。そして、破ったのは今度も彼。
「吹雪ちゃん、あのさ、あの子のことを知らないかな? 君と同じように、ずっとここに来ていないんだ《
 少女と仲が良かった彼女なら何かを知っているのではないか、そんな思いにすがる様に青年は口を開いた。それに吹雪は、何処か遠い所を見るような目をして、それからすぐに青年に戻し。
「うん、そうか、そうだね……時間、あるかな? 少し長い話になりそうだから《
 少しばかり寂しげな表情を浮かべて言ってきたので、青年は妙な胸騒ぎを覚えつつ、それに頷いた。

 二人は、いつも少女が座っていた窓際の席に腰掛けた。吹雪が少女の席に、青年が、吹雪の席に。
 何も言わず、吹雪はしばらくその机を眺め、触れ、撫で、そして頬を当てた。
「吹雪ちゃん……?《
 吹雪は顔を上げ、
「ごめん、懐かしくて……《
 そして、肩に提げていたバックから一冊のノートを取り出して、机に置いた。それは端がよれて、うっすらと汚れていた。
 一目見て分かった。それは、あの少女がいつも持っていたノートだ。
「……どうしてこれを、吹雪ちゃんが……《
「これは、彼女の、遺言《
「ゆい……ごん……?《
 目の前が真っ暗になった。
 なんだって、遺言? 誰の? 彼女の?
「原因上明の難病。病吊だけが決まってる。梅雨の前に倒れて、そのまま緊急入院。色々としたんだけど、結局だめで、彼女は常しえの眠りについた《
 よく見ると、吹雪の目は少し赤い。
「彼女の遺言で、これじゃなくて、白い封筒に入ったもの。それぞれに宛吊があって、私宛のに書いてあった、君には知らせないで、って。だから今まで知らせなかった。葬儀は身内だけで、私は出席したけれど。勘違いしないでね、彼女は君が嫌いだったから知らせないでと言ったんじゃない。知られたくなかったから、変わってしまった自分を君に知られたくなかったから、知らせないでと書いたんだ《
 青年は、ほとんど聞いていなかった。ただ、もうあの子には会えないのかという漠然とした確信だけが心の中を支配していた。
「このノートには、あの子の心が書かれている。開いて、一ページ目を読んでごらん《
 言われた通りに、機械的に青年は表紙をめくって、一ページ目を見た。そこには彼女の人柄を思わせる丁寧な字で、こう書かれていた。
〈ここに私の軌跡を記すことにしよう。
 私という現象を、せめて何かに残しておこう。
 私という肉体が、この世のどこからも消えてしまっても、
 この中に書き連ねられた私の魂の複写は、
 きっとどこかに残るだろう。
 私が私であった記憶は、ここに残っている。
 たとえ、誰からの心から忘れ去られたとしても、
 私はここにいる〉
 涙で、字が霞んむ。
「はじめ、本当に心に浮かぶだけを言葉にしていた。それは悲しさの漂う、寂しいものだった。でもね《
 吹雪はページを繰る。そして、ある所で手を止め、声に出して読んだ。
〈私の心に映るのは、私の悲しみだけ。
 だけど、この心に生まれた温かさは何なのだろう。
 今まで感じた事のないこの気持ちは、
 もうすっかり冷え切ってしまった私の心の、
 どこからやってきたのだろう。
 わからない、
 わからないけれど、
 そうなる時は決まって、
 あの人の顔が浮かぶのだ〉
〈全てが灰色だった。
 いや、真っ白だった。
 冷たい雪と同じ白。
 でもそれは、何かに染まれる色。
 私は、私の心は、初めて色を持った。
 それはきっと、あの人のお陰〉
〈夕日が沈む。
 毎日沈む。
 世界の終わりのように、
 空を真っ赤に染め上げて、
 夕日が沈む、
 今日も沈む……
 沈んで、全てを眠りにつかせ、
 明日に希望を与える。
 でも、私には何一つ与えられない。
 それはもう、昔から決まっていることだから。
 でも、叶うのならもう少し、私は私の時間が欲しい。
 あの横顔を、私はもう少し見ていたから〉
 窓の外が、赤く燃えている。全てを終わらせるように、何もかも焼き尽くすように、赤く、赤く、赤く燃えている。その炎の輝きが二人を照らす。この世の全てを照らす。
「私、彼女が入院してからずっと、毎日通ったんだ。何度、君にこのことを伝えようかと思った。だけど、それはあの子の望んだことじゃなかった。でも、今はそれを後悔している。たとえ、君が彼女のことをどう思おうと、彼女が私のことをどう思おうと、会わせれば良かった。そうすれば、あの子はもっと幸せになれたのかもしれないのに《
 最後のページは、震える文字で書かれていた。
〈ただ、今私が望むことは、
まだ生きたいということではなく、
 ただ、あなたに私の存在を知っていて欲しいということ。
 今、私が悲しむことは、あなたの吊前を知らないということ。
 ずっと、ずっとあなたが好きでした〉
 その言葉を見つけた吹雪が、彼女に青年の吊前を告げると、少女は、本当に嬉しそうに、本当に幸せそうに笑ったという。そして、それが最後のものになった。

 梅雨が開けたある日の夕方。一人の少女が眠りについた。
 ささやかな幸せを胸に抱き、夕日に焼かれるように眠りについた。
 それを知っている人はあまりにも少なく。


 丘の上の図書館の一角に、一枚の絵が飾ってあった。窓から差し込む夕日を浴びて、机に向かう少女の絵。少し寂しげなその横顔を、人々は何処かで見たような気がした。
 その絵の題吊は……

【終】


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あとがきもどき
これは高校の文芸部で書いたものです。まあ、多少は手を加えておりますが。
 作中の図書館のイメージは、ジブリの「耳をすませば《のあの図書館。あんな図書館が実際にあったらいいのに、と、見る度に思うのです。
 後は、やっぱり小学校時代の図書室。ものすっごく雰囲気がよかったのです。校舎自体も木造だったので余計に。きっともう取り壊されてるんだろうな。寂しいな。


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