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揚羽蝶 〜lose one's sanity〜 |
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その年の秋は、狂っていた。 夏が過ぎて、もうそろそろ秋かしら、と思ってすぐに、冬が来た。急にガクンと寒くなって、灯油とカイロが売れて、秋物衣料が余った。かと思えばいきなり暖かくなって、花が咲いた。 とにかく、その年の秋は、気温が上がったり下がったりする秋だった。 ある晩、バイト先に珍客が来た。人ではない、それはひらひらと舞う揚羽蝶だった。ひらひらと自動ドアから入って、暖房の風が当たるところを舞う。狂った秋でも、夜はしっかり寒いのだ。だからこの年の秋にはよく虫の客が来た。羽虫とか、甲虫とか、でっかい蛾とかだ。 私はわりと虫は平気な方だったが、同じバイトの男の人とか、社員さんがだめだった。でっかい蛾が現れた時なんて、かなりびびっていた。それを見ながらその虫をどうにかするのが、いつの間にか役目になっていた。 だから、揚羽蝶をどうにかするのは私の役目だったのだ。 やはり季節が合わないらしく、すっかり弱って床に横たわる揚羽蝶を、店員全員で見下ろした。 昔はやった歌にあるように、揚羽蝶の翅は黄色と青と漆黒をしていた。 捨てますか。と言って、箒を取りに行こうとした店長を止めて、私は言った。 私が連れて帰ります。 もう閉店の時刻で客はいない。 連れて帰りますか。店長が再度訊く。 連れて帰ります。また言う。 じゃあ、箱を差し上げましょう。 店長がくれたのは、少し前にパートさんがどこかに行ったおみやげが入ってた箱。それに空気穴をあけて、弱った揚羽蝶を入れた。蝶は逃げることもなく、大人しかった。 家に帰ると、すぐに暖房をつけた。部屋が暖かくなるまでにはまだ時間がかかる。揚羽蝶を箱から出して、こたつの上に載せる。ざるをかぶせて即席の虫かごにすると、湯を沸かして、インスタントのスープをこさえた。それを食べて、着替えて、寝た。 朝、昨夜から暖房をつけっぱなしだったので、部屋は暖かかった。目を開けると、目の前に黒い頭があった。 私のではない。 起きあがると布団が動いて、相手が見えた。 私はちゃんとパジャマを着ている。 相手は何も着ていない。浅黒い肌が、赤い毛布の上に横たわっている。こちらから見えるのは背中だけだが、骨ばっているところから、それが男だと分かった。 分かっても、問題は解決しない。 私が壁側で、男が向こう。つまり、ベッドを降りるには、男を跨がなくてはいけない。 一考。 布団から出て、布団を掛けて、それで跨いで、床に着地。寝息は続いている。 さて、どうしてこうなったのか、薬缶を火にかけながら考える。視線を薬缶からベッドに、ベッドから……。さまよわせて気づいた。テーブルの上のザルがひっくり返っている。 アゲハはいない。 踏んでしまう。そう思って床にはいつくばる。しかし、床にはいない。飛んでるのかと、膝をついたまま顔を上げたら、目が合った。布団に埋まった男と。 男の目は不思議な目だった。いろいろな色が混ざって、それで汚くならず、全ての綺麗な部分を秘めて、それで夜空のように澄んでいる。見つめていると、吸い込まれそうだった。 呆けていた男は、二、三度瞬きすると、にっこり笑った。 それでようやく何が起こったのかを、私は理解した。 揚羽蝶がこの男に変じたのだ。 ああ、秋までもか、私まで狂ったか。揚羽蝶が狂ったのか。 揚羽蝶を私は、アゲハ、と呼ぶことにした。他に呼びようがなかったからだ。 私はまずアゲハに服を着せた。持っている中でも一番サイズの大きい服を着せた。下着は、まさか私のを穿かせるわけにもいかなかったので、近所のコンビニに走って、買ってきた。もうここには来れないな、と帰り道に思った。 コンビニではついでに一番大きい蜂蜜の瓶詰めを買った。蝶なのだから、食べるなら蜂蜜だろう。そう単純に考えた。家にはメープルシロップしかない。 アゲハは、美味しそうに蜂蜜を舐めた。スプーンなどは使わない。手ですくったり、そのまま瓶ごと、まるでマグで牛乳を飲むように蜂蜜をすすった。その横で、私はトーストを齧りながら、これからどうしようか考えた。このまま揚羽蝶は狂い続けるのか。 隣りのアゲハが、私の視線に気付いてにっこりと笑った。 狂い続けるのなら、し続ければいい。どうせ、しがみつくような正常さなど持ち合わせていないのだから。 私は忙しかった。 バイトと、学校と。 その間アゲハは一人、部屋に残されることになる。外は相変わらず暖かかったり、寒かったり、狂いっぱなしだった。だから、暖かい部屋からアゲハは出ようとしなかった。窓を開けることさえ嫌がった。空気の入れ替えで開ける時などは、窓から一番遠い隅にうずくまってしまった。暖房のきいた部屋で、アゲハは寝たり、蜂蜜を舐めたりしていた。 私がバイトとかで部屋を出る時、アゲハは玄関までついてきた。そして、私のジャケットの裾を掴んで、情けない顔をする。私はそれを丁寧に解いて、行って来ますと部屋を出る。 少しだけ後ろめたさが残る。 バイトが終わってから、いつもは一緒にだらだらと喋ったりするのだが、真っ先に帰るようになった。閉店作業が終わってから、すぐにかばんを背負って、お疲れ様、と店を出る。真っ暗な空の下、自転車を漕ぎながら思うのは一匹残してきたアゲハのことだ。 駐輪場に自転車を止めて、二階の部屋へと駆け上がる。鍵を開けて中に入ると、奥で動く音がする。靴を脱いで中に入ると、真っ暗な中にアゲハの輪郭だけが浮かび上がる。電気をつけようとスイッチを探る前に、アゲハが抱きついてくる。 濃厚な蜂蜜の匂いがした。 そんな生活が一週間ほど続いた。 蜂蜜の空き瓶が、流しに並ぶようになった。 アゲハを部屋に残してスーパーに買い物に行ったのは、そんな頃だった。 バイトがない日はずっと部屋にいるような生活をしていたら、食料がなくなった。側にいるアゲハを引き離すのが後ろめたかったのだ。それでも、冷蔵庫の中が空になっては、買い物に出かける他ない。やはりアゲハは部屋を出る時、寂しそうな顔をしていた。その罪滅ぼしではないが、蜂蜜の大瓶を買って帰ることにした。ある特定の花の蜜だけで作った蜂蜜というのもあったが、値段が、手が出なかった。 両手に袋を提げて帰ると、アゲハはベッドの上で寝ていた。最近寝る時間が増えた気がする。 部屋の中は暖房がきいていて温かい。それの所為かなと思う。 買ってきたものを冷蔵庫に詰めたりしていたら、気配でアゲハが目を覚ましのが分かった。振り返ると、アゲハがすぐ側に立っていた。 どうした? と訊くと、目の前でしゃがんだ。顔が近付く。 「交尾しよう」 アゲハがはじめて口をきいた。 交尾しよう。 揚羽蝶なのだから、それは当たり前の発言かもしれない。でも、私は人間だ。揚羽蝶ではない。 アゲハは、 交尾しよう、 とは言うが、積極的になることはなかった。ただ、部屋に私がいるときは側に前よりも寄り添うようになった。でも、手は出してこなかった。 夜。寝る時は私はベッドで寝て、アゲハは床で寝た。秋だけど暖房をつけて、毛布を被せた。夜目を覚ますと、自分以外の寝息が聞こえる。それだけで私は充分なのだが、アゲハはそうでないのかもしれない。 でも、私が応えるわけには行かない。 私は人間で、そしてアゲハは揚羽蝶だ。 狂う秋は、しかし、徐々に正常に戻っていった。木枯らしが吹き、夜は急に冷え込んだ。 秋が深まり、すでに冬の足音が聞こえるようになって、ゆっくりとアゲハは弱っていった。 部屋は暖房をきかせているが、秋の寒さはどこからかやってきて、アゲハの身体を蝕んでいく。 それでも、アゲハは私に言い続ける。 「交尾しよう」 私はそれに応えない。 ある晩、部屋に戻ると、アゲハが部屋で倒れていた。 慌てて駆けより抱き起こすと、うっすらと眼を開いて、にっこりと笑った そしてまた、眠ってしまった。 休みの日、私はアゲハに厚着をさせた。外はもう肌寒くて、アゲハには辛いと思ったからだ。 アゲハが家に来て、はじめて外に出した。 靴はサイズを測って買ってきたが、少し大きめに買ったらサイズが合わなかった。 私はアゲハを山へと連れて行った。バスに揺られて、町外れまで行って、そこから山道を歩いた。アゲハ終始嬉しそうだった。手袋をした手をつないで、私達は歩き続けた。 山はすでに秋も終わりで、冬が来ていることを容赦なく見せ付けれらた。 頂上付近まで歩いて、展望台みたいな場所に出た。町を見下ろす位置に二人で立った。 「アゲハ」 呼ぶと、こちらに顔を向けた。 顔色の悪い顔で、それでも嬉しそうに笑う。 私は泣きたくなって、いつもアゲハがするようにアゲハに抱きついた。初めてのことでアゲハが戸惑ったような動きをした。でも、ゆっくりと背中に腕が回ってきた。揚羽蝶の癖に、身体がとても熱い。 口が耳元に来たのが分かる。耳が熱くなる。 「交尾」 「しない。出来ない。ごめんね……」 アゲハは、落胆したようだが、それでも背中に回した腕は解かなかった。 次の日、床に黒揚羽の死骸が落ちていた。 ベッドの上から、私はそれを見下ろした。 それを私は近所の公園に埋めた。 手許に残ったのは蜂蜜の空き瓶。月末にはきっと目が飛び出る電気代。 私は、ベランダから外を眺めながら思った。 一度くらい、誘いを受けても良かったかもしれない、と。 人間と揚羽蝶の間には、子どもは出来るのだろうか。 |
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| あとがきもどき |
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この作品はH16の秋に作った作品です。 で、今頃upする(現在H17・秋)。 黒揚羽蝶という存在は大好きです。あの儚くて、黒い、退廃的な雰囲気が。 狂う、というと、春が連想されそうですが、秋も狂う季節のような気がするのでした。 目に痛い配色ですかね……(汗) |
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