救いのない話。
〜bloody case〜
 由香は嗅ぎ慣れぬ硝煙の臭いを嗅いでいた。
 どこまでも続く廊下は白く、無機質な蛍光灯が照らしている。窓はなく、等間隔に薄いドアが並んでいた。その一つを開けて駆け込み、空のベッドの下にうずくまっていた。
 由香は目が覚めると白いベッドに寝かされていた。腕には注射の痕。頭には包帯。どうしてこんなところで寝ているのか分からなかった。
 ベッドの頭側にある名札、枕元にあるナースコール、無機質な調度品。それらが一様に、ここが病院であることを主張していた。
 訳が分からず、由香はとりあえずナースコールを押してみたのだが、何の反応もなく、誰も来なかった。
 どのくらい寝ていただろうか。
 たった一人訳も分からずベッドに寝ているだけという状況が、彼女を追いつめた。波のように打ち寄せる焦燥感ははじめこそ微かなものだったが、次第に勢いを増していく。徐々に体の内側から押し寄せてきて、由香は我慢できなくなって起きあがった。
 べりっと嫌な音がしたが、体に貼られていた計測機の端子だろうと判断して無視した。
 鍵の閉まったドアを開けた由香は、右にも左にも永遠に続くかと思われる長い廊下に出ていた。真っ白で、目が痛くなる。その中を、由香は壁に手をついて歩き出した。
 動くものは自分だけ。誰にも会えなくて、すでに由香は部屋を出たことを後悔し始めていた。部屋にいれば、とりあえず誰かがいるかもしれないという幻想にしがみついていられた。でも、部屋を出てしまえば、その幻想を捨てる他なかったのだ。いくら歩いても、白い廊下に自分以外の姿が見えない。
 不意に由香は顔を上げた。音がしたのだ。遠くから、でもはっきりと。
 ――人がいる。
 その衝撃は由香を頭から貫いた。駆け出そうとして、足がもつれて転んでしまう。が、すぐに起き上がって音がした方向へと歩き出す。壁に手をつき、ゆっくりと、ゆっくりと。一歩一歩確かめるように。
 足が止まったのは、鼻を刺激する嗅ぎなれない臭いを嗅いだからだ。頭の奥から、この先に進むのは危険だとという警告が発せられたのだ。心は早く自分以外の誰かと会いたいと訴えているのだが、頭はこの先に行くなという。結局勝ったのは、生存優先の頭の方だった。だから、床は手近にあったドアを開け、その部屋のベッドの下にうずくまったのだ。
 息を詰めて潜んでいると、遠くからまた音がした。それは心を逆撫でる。人に会いたい、でも、あそこに行くのは怖い。
 矛盾、
 葛藤。
 ――がたん、といきなりの大きな音に、ベッドの下に潜んでいた由香は口の中で悲鳴をあげた。
 恐る恐るベッドの下から覗くと、男が一人、肩から血を流してうずくまっていた。息をするたびに、その肩が上下する。血が止まる気配は全くなく、由香が見ている目の前で、白い白衣に血の染みが広がっていく。それはまるで、増殖しているようだった。
「……誰か、いるのか?」
 男が口を開いた。低いが、まだ若い男の声だ。
 由香は迷った、出て行くべき、じっとしているべきか。しかし、男はそんな由香の迷いなど無視するように、両手を床についてベッドの近くまで這ってきたのだ。喉の奥で悲鳴をあげて、由香は後退る。が、男がベッドの下を覗くほうが早かった。
「お前は……」
 男が目を見開いた。
「どうしてお前がここに……」
 どんどん恐怖に歪んでいく男の顔を、由香は視界の端で捉えていた。由香の目は既に、男の肩に釘付けになっていたからだ。そこに広がる血の赤と、甘い鉄の匂い。
 そこで、由香の意識は途切れた。

 我に返った時、そこに男の姿はなかった。由香一人が、ベッドの下から出て四つん這いになっていた。
 男はどこに行ったのだろう、と思い、由香は辺りを見回す。小さな部屋にはベッドが二つ、棚が二つ、人が隠れられる場所なんてどこにもないのに、男の姿はどこにもなかった。
 自分を置いてどこかに行ってしまったのだ。そう結論付けて、由香はその場で立ち上がった。立ち上がって驚く。どういうわけか、体が軽く感じたのだ。先ほどまでは歩くどころか、立っているだけでも軽い疲労を感じていたのに、今はそれがない。気絶している間に睡眠をとって、それで疲れが取れたのだろうか、と由香は首を傾げながら思った。
 傾げつつ、とりあえずこの部屋から出ようと思った由香は、自分の胸元が真っ赤に染まっているのに初めて気付いた。それまで着ていた白い寝巻きの胸元が、染め上げたように真っ赤になっている。どうしてだろう、と不思議に思いつつ、袖口で口を拭うと、こちらも真っ赤に染まってしまった。嫌な感じがして、部屋の隅にあった水道に駆け寄る。そこにあった鏡を覗き込む。顔が、特に口の周りが真っ赤に染まっていた。袖で拭った右頬だけが、血色のいい肌色に染まっている。
 どうしてこうなったのだろうか、不思議に思ったのだが気にしないことにした。それでもやはり顔が汚れているのは気になったので、水道水で顔だけは洗った。胸元が真っ赤に染まった服もごわごわとして着替えたかったのだが、こちらは替えがないので諦めた。
 元気が出てきたので、廊下に出た。響いていた音は消えていた。ただし、臭いはまだそこら中に充満している。むしろ前よりもひどくなっている。
 が、気にならなかった。壁に手をつくことなく、ずんずん進んでいく。
 ずっと続くと思われた白い廊下に、変化が現れたのはいつからだろうか。白い空間に、赤が混じるようになった。濃淡が様々の赤に、白。その中を歩いていると、自分の居場所が分からなくなってくる。
 何が起きているのか。浮かんでくる疑問への答えは、どこにもなかった。
 進んでいくと、右手に今までと違うドアが現れた。ドアノブも取っ手もない両開きのようなドア。胸ぐらいの位置に四角いボタンが上下に並び、ドアの情報にはランプが横に幾つか並んでいる。そのランプが、ゆっくりと右から左へと動いていく。

 ――チン

 金属音が響き、ゆっくりとドアが開いた。そこは小さな部屋だった。横幅は由香が両手を広げた一・五倍ほど、奥行きはベッドが丸まる一つ入るぐらい。その小さな空間が、真っ赤に染まっていた。まるで、人の体内のような。
 そこに、人が一人立っていた。
 真っ黒な、体の線を覆うような外套。その棒のようなシルエットから延びる腕に握られているのは、無骨な鉄の塊。それが由香のほうを向いた。
「――!」
 反射的に身を翻した由香のが、先ほどまでいた壁が凹んだ。耳をつんざく爆撃に、たまりかねて両手で耳を塞ぎ、そのまま床に倒れこむ。
 先ほどまで遠くでしていた硝煙の臭いが、すぐ側から漂ってくる。
 恐る恐る振り向くと、硬い靴音を廊下に響かせて、その彫像が目の前に立っていた。その口が開き何かを言うが、近距離での爆音に、由香の耳はほとんど働いていなかった。ただ、ノイズだけがその耳を覆う。
 何を言っているか分からないのに、相手が敵であることはもう充分に分かっていた。
 由香が選んだのは、逃走ではなく闘争。
 その喉から、自分のものとは思えない唸り声が迸った。
 四つん這いで獣のように体勢を低くして相手の出方を窺う。鉄の塊がこちらを向いた。
 爆音。
 耳の横を熱の塊が通り過ぎた。後ろ足を蹴り、肉薄する。鉄の塊は遠距離用の武器と判断し、懐に入ればこちらの方が有利だと考えたからだ。大きな鉄の塊は、小回りもきかない。向けられたそれを、右手で軌道を変える。爆音、右後方で着弾音。爆風さえ味方にして、距離を縮めて右腕を上げた。
 相手が後方に跳ぶ。今更何を、と思う。その二人の間に、三人目が割り込んだ。
 白刃がきらめき、振り下ろした右手がそれに阻まれる。
 深追いを避けて、後退。右掌を見ると、人差し指と中指の間が深々と裂けていた。
 三人目は姿こそ似ていたが、手にしていたのは日本刀だった。それを鞘から抜き、まるで護衛官のようにもう一人を背中に庇った。
 二人が何か言葉を交わしているようだが、今度は小さすぎて聞こえない。
 護衛官が床を蹴った。下からの斬り上げを体を反らして躱す。がら空きになった胴に体当たり。そのまま跨ろうとしたのを諦めて、跳び退る。向けられた鉄の塊からの爆撃。味方がいるのに容赦をしないのか、と驚く。その間に護衛官は腹筋で起き上がり、刀を構え直して、まだ体制が整っていないところに斬り込んで来た。上段からの振り下ろしを右に躱す。そのまま刀は床すれすれで急転回。斬り上げになったのに反応が間に合わず、左頬から目までを切っ先が横断した。堪らず後方に跳び退り、左手を当てる。生暖かい感触がした。
 間を空けず、ニ撃目。今度は突きで、視界が塞がれた左側から。避けることも叶わず、深々とその切っ先が肩に沈んだ。
 抜かれそうになった刀身を逆に左手で掴み、そのまま引っ張る。嫌な音を立てて肉に喰い込んでいくが、構わない。近づいてきた相手の、その首筋に喰らいついた。
 口の中に広がったのは、甘い鉄の味ではなく、衝撃だった。驚いて刀から手を離し、そのまま退いた。そこに隙が出来たのか、鉄の塊が咆哮をあげた。避けることも躱すことも出来ず、その衝撃をまともにくらい体が飛んだ。
「残念でしたね」
 腹に熱を抱え、起き上がれない。それを護衛官が見下ろしてきた。
「特注品でね、首筋に君らの牙が貫通しないよう、鉄板が仕込まれているんですよ」
 逆手に握られた刀の、その切っ先が目に入る。
「ま、顎の力が強いとこれも意味ないんですが」
 足の感覚がなくなっていた。むしろ胴から下が。突き抜けるような熱が胴の中で荒れ狂っている。
「恨むなら、是非私達以外にしてくださいね」
 刀が突き下ろされた。

 由香は、気がつくとベッドの上に寝ていた。
 夢を見ていたのは覚えているのだが、どんな夢だったのかは覚えていない。ただ、背中が嫌な汗で濡れているのを感じるので、きっと悪夢だったのだろう。
 由香は思い病を患っていた。治る見込みがほとんどない病。もう何ヶ月も入院している。腕には天敵の太い針。頭には包帯。
 見舞いに来るのは家族だけ。学校にもほとんど行けてないのだから、友達が来るはずもない。
 自分は一人なのだ。と由香は最近思う。
 最近の家族や先生、看護婦さん達の振る舞いから、もう自分は長くないのだと分かっていた。きっと、もうすぐ死んでしまう。たった一人で。きっと一人で死んでしまうのだろう。
 それは、寂しいと思う。死んでしまうのが嫌なのではなくて、一人で死んでしまうのが嫌なのだ。誰かと一緒にしにたい。誰かとともに死んでしまえば、きっと寂しくない。
 そんなある日、由香は病院が変わった。
 新しい病院は設備が整っていて、前にいた病院がまるで前時代のもののように思えるほどだった。
 噂のホスピスかとも思ったのだが、そうではないらしい。そこで由香は様々な治療と手術を受けた。
 どうせ助からないのに、と思ったが、最後の親孝行だと思ってそれらを受け入れた。
 ――そして……

「末期患者をモルモットにするなんて」
「救いのない話だな」
 白い建物から、黒い人影が二つ、出てくる。それと入れ違いになるように、大勢の白い人影が建物の中へと吸い込まれていく。
「殲滅、完了いたしました」
 大きな黒いバンの前に立つ、黒いスーツを着こなした男の前に立つ。彼は、眼鏡の奥の瞳を細めてその報告を聞いた。
「ご苦労様。今日はもう休んで良いよ」
 吸っていた煙草を携帯灰皿の中にねじ込みながら、男はその黒い二つの人影に言った。二人は敬礼をして、その場から離れる。
「帰ったらシャワーが浴びたい」
 小さいほうが言った。
「俺は酒が飲みたいね」
 大きいほうが言った。
 二つの人影が黒いのは、どす黒く変色した血の所為であることは、この月さえない晩には分からないことだった。もちろん、そのコートが元々黒い所為でもあるのだ。
「二人とも」
 声が飛んできて、顔を上げる。
「傷の確認をするからこっちにいらっしゃい。それと、着替えたほうが良さそうね」
 白衣を着た女が言って、手招きしてきた。
 二人は顔を見合わせて、了解、と口を揃えた。



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あとがきもどき
救いのない話を書こうと思って出来たもの。
春菊さんからのキリ番の第一候補だったんですが。もう一個書いている途中のがあって、そっちのほうがリクに近いと思うので、こちらは普通にアップをしてみたんだけど。
どうだろう?


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