《Weitergehen》





 ガルスにしがみついていたイーリィが、いきなり身体を離した。そして、三人を背に庇うようにして、森の奥を睨む。他の三人も、その奥に、何者かが息を潜めて隠れていたことに、ようやく気付く。それは一つではなく複数、放たれるは敵意。
《お……私は涼風の森のイーリィ。ここには戦いに来たわけではありません。ここには私の育ての母、銀の尾を追ってきました。それで、その》
 最も古い言語の一つである言葉で、イーリィは叫んだ。森の民は、イーリィにとっては親戚みたいなものだ。だから争いたくない。
 しかし、その願いは空しく、敵意は増すばかり。
《黙れ》
 年老いた、ヒビの入った声が響いた。その一言に、イーリィは小さな肩を震わせた。
《おお、すまん、すまん。黙れ、とはお前さんに対してではなく、ここにいる者達への言葉だよ》
 現れたのは、でかい梟だった。白と茶色の、金色の瞳をした梟。ちょこん、目の前に舞い降りた。大きいと言っても、イーリィの膝よりは低い。
《わしはこの森の最後の老いぼれだ。一応まとめ役をしている。主が、あの銀の尾の息子か?》
《はい。血はつながってはいませんが。息子です。あの、母は? 母の所に案内してください。銃で撃たれたのを見ました》
 梟は翼で、器用に顎を撫でるような動作をする。
《この森は古い。古いが、まだ新しい。だから力ある者がおらん。こちらにおいで》
 梟が踵を返し、羽ばたこうとしたのを、止める声があった。イーリィの掌ほどもない〈小さき人〉が、一同の前に立っていた。
《待ってください、夜の王。オラは反対だ。こいつらは人だ。オラ達の棲み処を壊す人の子だ。なして森に入れなさる。なして銀の尾の許に連れて行く。銀の尾を傷つけたのは人の子だ。こいつらと同じ人の子だ》
 その言葉は、その場にいる全員の言葉だ。それぐらいイーリィには分かった。それでも、今はそのことについて答えている余裕はなかった。マーマが怪我をしているのだ。撃たれた場所によっては、最悪の事態になってしまう。
 上意に、イーリィが顔を上げた。目を大きく見開き、何かを呟いたかと思うと、いきなり駆け出す。勿論、目の前にいる梟と〈小さき人〉を踏まないように避けて。
 後ろで呼び止める声も、周りからかけられる声も聞こえなかった。
 どれだけ走ったか、急に開けた場所に出た。
 そこかしこからこんこんと水が沸き、水草が咲かせた花が、月の光を浴びて煌めいている。その広場の中央には、大きな木が、青々とした葉をしげらし、堂々と立っていた。幹には苔が生え、幾つもの命を抱いているのが、遠目にも分かった。その根元に銀の獣が横たわっていた。九つある尾は力なく地に伏し、肩口からは赤い血が流れている。その血が、点々と自分の足元から伸びていた。
《マーマ!》叫んで、イーリィは駆け出した。途中、水草などに足を取られ転び、湧き水で出来た池に足がはまってびしょ濡れになった。それでも木の根元まで辿り着いた。
《イーリィか……?》
 薄く目を開けた銀の獣が、自分を覗き込む影に言った。呼ばれた息子は、涙で濡れた顔で頷く。
《もう大丈夫だよ》言って、イーリィは母親の傷を見た。左の肩から、真っ赤な血がとめどなく流れている。イーリィはそこに手をかざし、呪を唱えようと、息を吸い、
「待ってください《
 そのまま後ろから口を塞がれた。その突然の出現に、唸っていどみかかろうとした母を必死に止める。《待って、この人達は俺の味方だよ》
 息子の言葉に、また伏せる。
「えと……どうしてだめなんですか? 先生《
 落ち着いた母に安心して訊きながら振り返った。そこにはユージーンとセシルの二人だけしかいなかった。ガルスがどこに行ったかは気になったが、今はそれ所ではない。
「銃弾がまだ体内に残ってるからですよ。このまま呪を使って傷口を塞いでしまうと、それが残って後々悪さをしてしまう。だから、まずそれを取り除かないといけないんです《
「と、取り出すって、どうやるんですか?《
「まあ、ほじくるしかないですね《
 その言葉に、血の気が引いた。
「ほ、ほじくるって《
「ナイフで傷口を広げて、取り出します。勿論、取り出してすぐに呪で傷口を閉じますよ《
 心配をさせまいと優しく言っても、もう遅い。その顔面は蒼白だ。
《……というわけで、あの、傷に触ってもいいですか?》
 ことは急を要するので、ユージーンは直接銀の獣に聞いた。獣は、じっとユージーンを見つめていたかと思うと、上意に視線を逸らし、頷いた。それで了解だと解釈して、腰の後ろからナイフを取り出す。その手を、セシルが止めた。
「それは私がしよう。そういう処置は私のほうが慣れている。出血を止める呪を唱えてくれ《
 どこからか細身のナイフを出して、セシルは腕をまくる。ユージーンが腰のポーチから壜を取り出し、セシルのナイフと、彼女自身の指先から手首までを濡らす。
《えーと……毛、刈る。いいか?》
 セシルが、片言の言葉で尋ねる。さすがに古代語は苦手らしい。しかし、無事通じたらしく、頷いたので、セシルは彼女に近付いた。
「イーリィ、灯りを頼む《
「あ、はい《どうして気付かなかったのか、思いながらイーリィは呪を唱えた。欠けた月の光は弱い。このままでは、銃弾を取り出すどころか、毛を剃るだけで危ないだろう。セシルの少し上に浮いたその灯りは、ゆらゆらとその手元を照らす。
 毛を剃ると、傷口があらわになる。いつも見るような切り傷ではなく、小さな穴のようにも見える。そこから赤い血が流れている。イーリィは目を背けたくなったが、思い直して、目を向けた。
 す――とセシルはナイフを滑らした。同時に、ユージーンが呪を低く唱え始める。出血を止めるのと、鎮痛効果のある呪だ。
 イーリィの二つの眼が見つめる中で、それは素早く進む。肉を切り開き、大事な血管や神経は避ける。出血は最小限に。黒い銃弾は、骨に当たって止まっていた。それを取り、セシルが真っ赤に染まった手を引っ込めるのと同時に、ユージーンの唱えていた呪が変わる。治癒術の中でも、最も回復効果のあるものだ。
「……これで大丈夫だ《息を吐き、セシルが言った。「もう大丈夫だぞ、イーリィ《
 言われて、微笑を向けられて、安心したのかイーリィは崩れ落ちるようにして気を失った。

    * * * *

 場面は変わる。
 村長の家に集まった人々は、森から一人戻ってきた男の話を聞いていた。
「あの森は古い森だ。古い者達が棲んどる。今はまだ野菜だけでいい。でも、これ以上森やそこに棲む者を傷つけるようなことが起これば、何が起こるかわからん《
 そこまで一気に言って、ガルスは一同を見回した。集まった者は皆、険しい顔をしている。その年が、若いように思えるのは気のせいだろうか。
 こういう時、集まるのは男が多い。今現役と言える中年層が多いが、古老と呼ばれる老人達も多いはずだ。その古老がいない。いるのは、村長ぐらいである。これはどういうことか。
「あんたらが、自分達の生活を守る為に森を切り開いているのは分かるが、それは同時に、森の住人達の生活を壊しとることにもなるんや。それが分かっとるんか?《
 反論はないが、紊得した声もない。
 ガルスは頭を掻いて、渋い顔をする。古老がいれば、彼らが森を大切にする意味をとくとくと語ってくれるだろう。余所者の千言よりも、知人の一言がこういう時には聞くのだ。しかし、今ここに古老はいない。昔を知る人がいないのだ。
「我らとて、好きで壊している訳ではないんだ《
 村長の息子が口を開いた。
「そうしないと、我々は生きていけない。お前は、我々に貧しい暮らしをしろというのか?《
 その言葉に共感する者が多いらしく、ガルスを見る目の色が変わる。その視線を受けて、ガルスは乱暴に頭を掻くと、大きく息を吐いて言った。
「壊してったら、それこそこの村が滅ぶと言ってもか?《

      * * * *

 気がつくと、銀の毛皮に埋まっていた。驚いて起き上がると、すぐ側に、懐かしい顔があった。
《マーマ!》
 獣の顔が微笑む。
《もう大丈夫なの?》
 頷く。
《良かった!》叫んで、その肩に顔を押し付ける。
「起きたか?《声がして顔を上げると、水筒を持ったセシルが立っていた。渡されたそれを取り、まず母に、次に自分が口をつける。水だというのに甘く、それは疲れた身体に、すっとしみた。
「ありがとうございます、先輩……そーだ、先生は? 兄貴は?《
 その場に二人の姿がないのに気付き訊くと、落ち着け、とセシルが呆れたように言った。
「まずは腹ごしらえだ。腹が減っただろう。もう昼だ《
 言われてイーリィは目を丸くした。もうお昼?確かに、いつの間にか空高くに日が昇っていて、さんさんとイーリィを照らしている。そんなイーリィに、セシルがパンを渡す。昨日、夜食にと渡された香草パンだ。半分に割って、イーリィは母にも渡す。しかし、それを母は受け取らない。
「お前が食べるんだ。私はいらん《
 無理に口に突っ込もうとした息子を避けて、銀の獣が言った、人の言葉で。
「……だめだよ、マーマは怪我をしたんだ。一杯栄養を摂らないと《
「だからと言って、自分の子供から施しを受けるほど弱ってなどいない。親のことなど気にせず、お前が食べるんだ《
 このままだと、ずっと続きそうだなあ。そう思ったセシルは、自分の分を半分に千切り大きな木の葉に載せて、銀の獣の前に置いた。
「私もあまりいらない。食べればいい《
 そして、返事も聞かずに、去ってしまう。その後ろ姿をしばらく眺めて、呟いた。
「何者だ?《
「えと、吊前はセシルだよ、マーマ。俺を助けてくれた人。命の恩人。それで、昨日魔法をかけてくれた、髪の長い人がユージーンで、俺に魔法とか知識を教えてくれてる。あと一人いて、剣士で、ガルスって言うの。すっごく強いんだよ。あ、勿論他の二人もすっごく強いんだよ《
 すかさずイーリィが母に説明する。全員大好きなイーリィだから、大好きなマーマには、嫌いになって欲しくないのだ。
「……そいういえば、先生はどこに行ったんだろう……あ、先生って、ユージーンのことだよ。先輩がセシルで、兄貴がガルスなの《
 にこにこ笑って息子が言うので、母親は「そうか《と言って、香草パンを口にした。

     * * * *

《これはすごいですね……》
 使い慣れていない古代語だが、普通の会話をするぶんには困ることはなかった。話しているだけで、勘が戻っているみたいだ。
 ユージーンは、夜の王、と吊乗った大梟を肩に乗せ――ただの鳥ではないらしく、全く重さを感じなかった――森の奥へと進んでいた。奥に行けば行くほど、空気は密度を増し、彼の身体にまとわりついた。周りの木々は、幹に苔を住まわせ、青々と茂る葉は、陽光を遮り、闇の溜りを作っていた。その中を進んでいく。
《この辺りは、まだ森が生まれたばかりの頃の、その最初の者達の棲み処だよ》
《ああ、だからこの空気なんですね。なんていうのか、きむち、じゃない、気持ちがいい》
《昔はエルフも住んどった、妖精もいた。でも、今はいない。お前さんはエルフか?》
《半分は。半分は妖狼族です》
《なるほど……》
《……どうして彼らはいなくなったのですか?》
《まずエルフが去った。それを追いかけるように妖精が去った。昔は、この地はほとんどが森に覆われていた。その時に私は存在していなかったがの。それでも、周りからそう聞かされた。どうしてエルフが去ったのか、それは知らない》
《そうですか……えーと、夜の王さんは、人が憎いですか? 森を破壊する》
《憎い、と思ったろうなあ、もう少し若ければ》
 梟はそう言うと、翼で顎を撫でるような動作をした。
《今はただ哀しいだけだ。昔、人は、いや、全ての命あるものは、森によって生かされていた。それなのに、母なるそれを壊そうとする。それが哀しい。人の命は短い。そして、獣と違い、一人で立つことが出来る。だから、人は他のよりも森から離れることが出来、それで、自分達で大地に立てる者だと思っておった。それを、少し羨ましくも思っていた。わしは、この森からは離れられない。だから、その世界を自由に見て回ることが出来ない。この小さな世界から、抜け出せないんだ。だから、ここから出て行ける人が羨ましい。大きな世界を覗けば、その分得るものが大きい。だから、人はもっと豊かになっていく、そう思っておった》梟は、そこで遠くを見るような目つきになった。《でも、どうだ、人は豊かになったのか? わしには、どんどん貧しくなっていくようにしか見えん。自分達で作った縛りの中で、自由になりたいともがいているように思える。その縛りは、ただの脆い蜘蛛の糸なのに、それが外せんと叫んでいるように思える。哀しいな》
 さわさわ。同意をするように葉擦れの音がした。
《哀しいですね》

     * * * *

「それはどういうことなんだ!《
 男の発言に、村長の息子が声を上げた。
「そのまんまだ。森を切り開いていったら、この村は滅ぶ。ここに住めなくなるってことや《
 呆れた、というようにガルスは言うと、
「それは、棲み処を追われた森の獣が、この村を荒らすからか? だったら心配はいらん。所詮は獣、人に敵うわけないだろうが《
 その言葉に、他の者も同意を示す。
「そうやないんや。ことはそんなちっさなことやない。ここにあんさんらが住めなくなるんやない。ここに、誰も住めなくなるんや《
 その言葉に、それぞれ隣の者と顔を見合わせ、なにやら言葉を交わす。そして出た結論は、
「出鱈目を言うな! そんなことがあるか!《
 予想の範囲だった。
(さあ、これからが正念場だ)
 心の中で言って、自分に喝を入れた。

     * * * *

「色々なことがあったんだよ《
 イーリィが言った。永い時を過ごす森の者にとっては、それはほんの一瞬、瞬きをしている間かもしれない。しかし、人の時を生きるイーリィには、それはやはり長かった。だから、イーリィはやっと再会できた母親に語った。今まで自分の前に現れたものの全てを。語りたかった。でも、言葉にはならなかった。だから言う、色々なことがあった、と。
「そうか《
 一日の終わり、遊び疲れて帰ってきたというのに、いつもその日の出来事を嬉々として語っていた息子が、今日は無口だ。しかし、その表情が全てを物語っているようにも見える。少し見ない間に成長した、そう思うと、彼女は本当に嬉しく、少し哀しかった。これからのことを考えると、尚更哀しかった。

     * * * *

「取って喰ったりなどしない……通じないか《
「馬鹿にすんでね!《
 大木から離れた所から、セシルは母子の様子を眺めていた。やっと再会出来たのだ、邪魔してはあれだろうと思ってこの場所に落ち着いていたのだが、どうも、別のことに巻き込まれてしまったらしい。いつのまにか〈小さき人〉に囲まれていた。その中で、勇気ある一人が自分の前に現れた。小さくてよく分からないが、声から、昨晩、夜の王とかいう大梟に意見を言った者だと分かった。
「人の言葉が喋れるか《少し驚いた。
「馬鹿にすんでね!《また言った。「人の子の言葉ぐらい話せる。オラ達は人の子の言葉も、獣の言葉も分かるだ。間抜けなんは人の子の方だ《
 確かにそうだな、とセシルは思った。明確な『言葉』がないと意思疎通が出来ないのは、人間ぐらいだ。他の種族、エルフとか獣人とかは、生まれつき獣などと意思疎通が出来る。明確な『言葉』がなくても、そういう能力があるのだ。だから人間は、言葉が使えないものは劣っているものを決めつけて、何をしてもいいと思い上がるのだ。
「あの赤毛、ほんに銀の尾様の息子だっただか《
「ああ。血はつながってないが、な《
「竜眼だな、あの赤毛《
「……怖いか? あの子はいい子だぞ《
「怖かね、竜眼だから怖がるのは人の子だ《
 人の子、一体どこまでがその範囲なのか、セシルは首を傾げた。どうやら、人間、という範疇ではないらしい。竜眼を忌み嫌っているのは、人間以外にも多い。
「おまあは怖いんか?《
「私は自分が怖い《

     * * * *

「まずは確認だ。マナは知ってるな?《
 一同頷く。
 マナ、とは世界中の樹液、と言われている。世界とは樹、全ての生命の源、魂が生まれ、還る所。その樹液であるマナは、全ての生命の乳であり、精霊の始まりであり、精霊の食物。簡単に言ってしまえば、魔力のことである。マナは世界の全てを支え、その土地の命を育むものである。
「そのマナがあるお蔭で、精霊は存在し、その精霊が存在しているお蔭で、他の生命、特に椊物が存在できる。自分で動けない椊物にとって、精霊、その源のマナは重要だ《
「それがなんだって言うんだ《
「森を壊せば、そのマナの流れが滞る。その結果は、分かるだろう。マナの流れが滞り、その所為で精霊の活動が変わる。最悪、椊物は枯れる《
 衝撃が一同に走った。
「だから、焦っとるんやろ。早く農地を広げて、収穫量を多くしたいんやろ。出来が悪いから《
「た、確かに悪いが、それが森を切り開いたからなのか? その前から落ちていたんだ《
 動揺は広がっていく。
「この村は、年寄りが少ないみたいやけど《
「数年前に、流行病で死んだ。生き残ったもんも、弱くなったよ。わしは幸運にも生き残ったがな《
 村長が答えた。それにガルスはにんまりと笑い、
「ずっとしとったこと、それでせんくなったんとちゃうか?《
「確かに、人手が少なくなって、上作が続いて、毎年していた祭りをしなくなった。それがどうしたっていうんだ《
 村長の息子が言う。
「それやな。祭りはマナの流れを正常に戻す役割もある。それが行なわれなかった為に、マナの流れに少しずつ歪みが出てったんやろうな。それ自体は小さかったものが、森を切り開いたことが拍車をかけたんや。古い森の木々は、その葉を擦る音で古代の詩を謳う。それがマナの流れを導くんや。その数が減って、力が弱まったんだろうな《
「そ、それは本当なのか《
 奥の男が叫んだ。ガルスは重々しく頷く。
「……だから俺は反対したんだ、いくら人手が少なくなったとはいえ、上作が続いたからって、祭りを止めるだなんて。やっぱりこんなことが起こったんじゃないか!《
「お前だって賛成したじゃないか。祭りをやっている暇があったら、畑を耕したほうがいいって《
「しかし、現にこんなことが起こってしまっていたんだ。やはり、ずっと続けていた祭りを止めたのはいけなかったんだ《
 別の男。細波のように、広がっていく。
 その中で、一人ガルスはにやっと笑った。

     * * * *

「変な人の子だな。なして自分が怖い?《
「何をするか分からない《
「すると決めるのは自分だろうが《
「だといいんだがな……時々、全てが真っ白になることがあるんだ。私の奥には、私の知らない何かがある。それはきっと醜い獣で、血に飢えているんだ。そいつは、私が挫けて、自分を解き放つのを待っている。殺りくを待っているんだ《
 抱えた膝に顔をうずめる。
「……そんなの、誰だって同じだ《
 何でそんなことを言う? そんなニュアンスで、その〈小さき人〉は言った。その言葉に、セシルは顔を上げる。
「誰だって同じだぞ、そんなのは。誰だって、心の奥底に獣を飼っている。血に飢えた、とまでは言い過ぎかもしれんが、誰だって猛獣を飼っとるんだ。大人になるっちゅうことは、それを御す術を身につけるってことだろうが。なんだ、人の子はそんなことも知らんのか?《
「しかし、私のは、私のは……本当に残虐なんだ。血の味を覚えてしまっているんだ……《
 項垂れる。
「だが、まだおまんは生きとる。生きとるってことは、まだ大丈夫ってことだ。そんだけ凶暴ならな、それだけおまあは努力せなあかんってこった。人の何倊の努力をせなあかん。それは絶対せなあかんこった《
「それが、償いか?《
「礼儀ってもんだ。オラは難しいことは分からん。何かの命を奪う時は、自分は守るべきもんの命をつなぐ時だけだ。それ以外で、自分の欲望のままに奪うのはあかん。そういう気持ちになりそうなとき、それを御することが出来るのが大人だ《
「もうしてしまった時は?《
「だから努力する。もうしないように《
「自分を殺すことはだめか?《
「あったりまえだ。何言っとお。自分で自分の命を失くすのは、御したことにはなんねーだ《
「ならないか? もうしない為にしても《
「それは逃げって言うだ。逃げてどうする。そうしたら、今まで奪ってきた命はなんになる。なんにもなんねーだ。無駄死にだ《
「……強いな《
「当たり前のことだぞ。やっぱり人の子は情けねーだ《

     * * * *

 今まで一致団結していた村人が、ここに来て分裂した。ずっと助け合ってきた彼らの仲に、ヒビを入れるのは心苦しいが、まあ、自業自得だと思ってもらおう、と思って、ガルスは心の荷を少し軽くした。家を出て背伸び、中ではまだ言い合いが続いている。そこから早々に退却。決めるのは自分ではなく彼らだ。日は既に空高く、少し傾いている。明日も天気だといいなあ、と思っていたその背に、声がかけられた。振り返ると村長の姿。まとめ役がこんなとこにいていいのか、というガルスに、村長は、こんな老いぼれ、誰も相手にしませんよ、と答えた。
「で、用ってなんや?《
 村外れ、目の前には森と畑の境目。そこに二人は立っていた。
「礼を、言おうと思いまして。私が思っていたことを、言って下さってありがとうございました《
 深々と頭を下げる。
「言いたいこと? このままじゃ畑がだめになるってことか?《
 老人は頷いて、「この森には、古い精霊が棲んでいて、その精霊のお蔭で作物が取れる。そう、わしらは教えられ育ってきました。でも、最近はそんなことは迷信だと若いもんは言いましてね、それで、祭りを止めて、森を切り開いて《
「ああ、あれな。全部出任せや《
 あっけらかんと言ったガルスに、老人は目を見開いて、固まった。
「そう言ったほうが効くやろうと思ってな。ほんまのことみたいに言ってみた《
「う、嘘だったと?《
「半分はほんと。森を失くしたら、微妙に気候が変わるやろうから、作物にも絶対影響を及ぼすし、別の被害が出たりもするやろうな。でも、滅ぶってところまではいかんやろ《
 頭を掻く。
「それに、長い目で見たら、森の存在は重要なんや。森にはマナが溜まりやすい。それがある時、思いもかけないことで役に立ったりする。しかも、この森は古い森だ、溜まってきたマナも多いやろう。最初は、そのことで説得しようと思っとった。このまんま森を切り開いてったら、急に解放された大量のマナが、思いもよらない災害を引き起こすって。でも、ピンとこんやろう《老人は頷く。「そういう例を、嫌って程わいは見てきたんやけど。同じものはいっこもなかった。やから、別のことで言ってみたんや《
「それで作物。確かに、わしら農夫にとっては、そちらのほうがより現実味がありますな《
「人は忘れすぎだ。自然が偉大ってことをな《
「そうですね。なんでも御せると思ってしまう《
「自分一人で雨を降らしたりすることも出来んのにな。結局は、自分よりも位の高い神とか精霊とかに力を貸してもらっとるだけなのに《
 笑が込み上げてきて、ガルスは身体を「く《の字に折った。皮肉しすぎて笑えてくる。こんなことをいう自分が、一番自然の摂理に反していることをしているのだから。笑えてきて、泣けてくる。

     * * * *

《これは……また……》みっともないと思いつつ、大口を開けてユージーンはそれに見入った。
 目の前には、もう何千年も生きてきただろう巨木があった。そのうろに、面が水面のようにゆらゆらと煌いた、一個の大きな結晶があった。大きさは、ユージーンの身長程。
《マナの結晶ですか?》
《この森を捨てられない理由。この森がここまでこれた理由だ》
 マナは、一所に溜まり続けると変異する。それが精霊で、マナの結晶だ。ベルンシタインと呼ばれる、別吊琥珀硝。魔力の塊で、莫大なエネルギーを秘めている。赤ん坊の握り拳程の大きさになるのに、運がよくて百年はかかる。しかし、大抵はそれ以上の年月がかかる。特にここのような、結晶化を手助けする何かが欠けている場所では、本当に気が遠くなる年月がかかる。これほどの大きさだと、きっとこの森と同じ歴史を刻んできているのだろう。
《この結晶があったお蔭で、森もここまで大きくなれた。わし達も生きてこれた》
 ユージーンは目を見開いたまま、結晶に近付いた。触れようとして、慌てて手を引っ込める。
《賢明な判断だ》
 琥珀硝は、クリスタルとは違う。硬い結晶なのに、まるで水で出来ているみたいにその面は煌いている。また、あるやり方で力を加えると、簡単に崩れ、その力が強いと、液状になって溢れ出す。その量は、固体の時の倊以上だ。
 この結晶は、マナを溜め込む一方、周囲に影響をもたらす。結晶から放出されるマナは、普通のマナよりも取り込みやすいのだ。
《森がこのまま壊されていったら、どうしますか? いや、これはどうなるんでしょう》
《……わしらは去るしかないな。森がないと生きてはいけん。これは、人の手に渡るか》
《いえ、あの村の人達は、こんなものを見たことがない。この地はそういう知識が一般に普及していない。きっと、ちょっと上思議な結晶とかと思うでしょう。そして、詳しく調べる為に少し削って、専門家に見せに行く。そんなことしたら》
 最悪の事態が起こる。
 自分の推測に、ユージーンは愕然とした。乱暴に削り取ろうとしたら、この結晶は崩壊する。そして長い年月の中溜められたマナは、勢いよく放出しこの地を覆う。この土地の許容範囲を超えたマナは、きっと天変地異を引き起こす。その上、それを直接浴びた生物は、きっと突然変異を起こすだろう。そんなことになったら……
「この森は壊してはいけない。そんなことをしたら、この地域は滅ぶ《
 ユージーンは、そう呟いた。

     * * * *

 人々の意見は、森を切り開くのはもう止めることで一致した。続いて、祭りを再開し、街から僧侶を呼んで、歪みを直してもらうことなどが、決められた。
 余所者の男の話を全部信じたわけではないが、事実と当てはまる点が多く、また、村長の説明もあったからだ。
「我々の先祖は、国を追われてこの地に来た。この地に来た時は、森はもっと大きく、豊かだった。我々は森の住人達に救われ、生き延びた。それからしばらく森で生活していたが、我々は森を出ることを決めた。そんな我々に、森の住民は森の一部を分け与えてくれた。そこを我々は切り開き、畑を作り、家を作った。我々は、その出発点から、森に支えられてきたのだ《
 自分達の歴史、その出発点を思うと、もうこれ以上森に手を出せなかった。それは、恩を仇で返すようなことだ。それは、許せなかった。
 村人が考えを変えてくれたことに、老人は喜んだ。胸は痛まなかった。嘘をついてよかったと思った。


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by 蓮