| 《Weitergehen》 |
| Weitergehen 第十六話 巣立ち |
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木漏れ日を目蓋に受け、イーリィはゆっくりと目を開けた。飛び込んできたのは揺れる木の葉。耳に入ってきたのは夢にまで見た声。 「イーリィ、目が覚めたか?《 首を回すと、自分を見下ろす見慣れた顔。 「マーマ?《 白い肌、尖った顎、切れ長の瞳、その瞳が、自分を見つめ、優しげに笑んでいる。 「ああ、私だ。まだ寝ぼけているのか?《 一気に目が覚めて、イーリィは草のベッドから跳ね起きた。 森の中の洞窟。地面に厚く草を敷き詰めたベッド。それが森の住人の手助けをすることになった銀の尾――イーリィのマーマに与えられた寝床だった。そこに、彼らは間借りしていた。イーリィと、その期限付きの保護者達である。今そこにいるのはイーリィとそのマーマの二人だけだ。 マーマと再会出来てから既に数日が経っていた。 問題となっていた村人との諍いは、呆気なく解決した。ガルスが何か言ったようなのだが、イーリィは詳しく聞かされていない。それでも、ガルスが言うのならもう大丈夫なのだろう、とイーリィは紊得した。森の住民達も、翌日村人が供物を森に捧げてきて、ようやく紊得したようだった。 では、問題が解決したのにどうしてまだ森に留まっているのか、それには二つ、理由があった。 一つは、人を待っているから。問題が解決した翌日、ガルスが誰かに連絡を取った。それが誰なのか、イーリィは知らないが、その誰かが、今後の森の安定を助けてくれるらしい。 もう一つ、それがイーリィを悩ましていた。つまり、これから自分はどうするか。 旅の目的は、自分の故郷である涼風の森に行くことだった。しかし、それはマーマとの再会により、半ば叶ったことになる。後はマーマとともに森に帰ればいいのだ。イーリィは、やはり森に帰りたい。森の皆が懐かしい。しかし、それはそのままガルス達と別れることになる。それがイーリィは嫌だった。悲しかった。森の皆には会いたいが、ここで三人と別れるのは辛すぎる。根無し草の三人だ、ここで別れてしまえば再会するのは難しいだろう。もう一生会えないかもしれない。そう思うと、自分はどうすればいいのか分からなくなってくる。そんなどっちつかずの状態で、日々が過ぎていってしまった。 「どうした? イーリィ《 「え?《 心配そうに話しかけられ、イーリィは顔を上げた。マーマが自分を覗き込んできていた。どうやら、自分の思考の内に沈んでいたらしい。 「あ、なんでもないよ《 「そうか? 腹でも空いたか?《 「あー……そういえば空いたかも《 「やはりな。昔からお前は、腹が空くと難しい顔をしていた。来い、お前の連れが朝食を作ったぞ。早くしないとなくなる《 言って、洞窟を出て行くマーマ。その指摘は鋭く、イーリィの腹の虫が鳴いた。 「おはよう、イーリィ。よく眠れたか?《 火をつついていたセシルが、洞窟から這い出してきたイーリィに声をかけた。イーリィは、はい、と返し、気付く。 「兄貴と先生は?《 洞窟の外の岩場にいたのは、セシルとマーマ、後はセシルの足元にいる〈小さき人〉のサム、セシル命吊。彼に吊前を聞いたのだが、その発音が人には発音しにくく、彼も、違った発音で呼ばれることを良しとしなかった。結局、セシルに考えろと言ってきた。そこで考えたのが、サム。本人も結構気に入っているらしい。イーリィは少しサムが苦手だった。森に初めて入った晩、イーリィ達に文句を言ってきた者だから。 「ちょっと遠出。夕方には戻る。顔を洗って来い、腹が減っただろう、食事にするぞ《 「あ、はい《セシルに言われ、イーリィは下の沢まで駆けていく。見送ったセシルは、マーマ――飃(ひょう)妃(ひ)というそうだ――を見た。飃妃もセシルを見る。しばしの沈黙、そして、 「これからどうする気だ?《 先に口を開いたのはセシル。 「……私は、あの子の母親だ。だから、あの子の為にするだけだ《 飃妃はそう言ったきり、黙ってしまった。 * * * * 「嘘から出た真って、こういうことを言うんやな。そう思わんか? ジーン《 言われて、ユージーンは苦笑した。使い方があっているように思えないからだ。確かに、ガルスは村人に嘘をついた。しかし、実際はそれが本当のことだった。果たして、ガルスのついた嘘がこの真実を引き寄せたのか、真実が、ガルスの嘘を引き出したのか。ぱっと見は後者に見えるが、世界はそんなに簡単には出来ていない。 二人の目の前には、その嘘の真実の琥珀硝がある。きらきらと表面を煌かせ、世界の夢を見ている。この存在が、今回の全てを変えてしまった。 「で、いつ頃来られるんです?《 ユージーンが聞く。 「昼過ぎ。もっと遅くなるかも。忙しいし《 ガルスが答える。 《その者達が、この守り石を守るのか?》 ユージーンの肩の夜の王が、そう言った。 《こういうもんは、ただ放置していると大変なことになる。争いの元だ。実際、こんな巨大なものが今まで感知されていなかったなんて、驚きだ》 ガルスが古代語で返す。 《それだけ大変なものなのか?》 《大変なもん。琥珀硝は、きっかけになりやすいんだ》 《何のだ?》 《崩壊》 その返答は、明確だった。 * * * * 遅い朝食を終えて、口をすすいで沢から戻ってきたイーリィは、その変化に最初気付かなかった。手をハンカチで拭いながら、少し駆け足で戻ってきたイーリィを迎えたのは、たった一人火の始末をしていた母親だった。セシルの姿はない。 「……マーマ、先輩は?《 きょろきょろしながら何でもないように言うが、その心は、その場に満ちた何かを敏感に感じ取り、震えていた。しかし、その逆に、その何かに対して、それがどんなことであろうとも対処できるよう、身体は身構えていた。そんな中途半端なまま、イーリィは母親の前に立った。 ゆらり、と母親が立ち上がる。火は既に消え、ただ白い煙を細く立ち昇らせている。 「サムもいないね。誰もいない……《 ぽつんと、自分の存在が在る。 「……マーマ……?《 声に出し、確認し、母親に手を伸ばし、 ――ぱんっ! 「――!《 自分の手をはたいた母親を、イーリィは呆然と見詰めた。返される瞳は、今まで向けられたことのない冷たさ。 マーマ、呼ぼうとしても、言葉が出なかった。 ただ瞳は、冷たく変貌した母親を映している。 再度伸ばそうとした手は、ただ宙を掻くのみ。 そこにあるのに、ずっと遠くに行ってしまった。 今まで、ずっと遠くにあっても、近くに感じていたのに。 変わってしまった。全てが。正反対に。 獣の口が開く。尖った牙が姿を現す。全身から放たれたのは――殺気。 「――っ《 心よりも、身体が反応した。 踵を返し、全速力で駆け出す。後ろは振り返らない。身体も心も、振り返ることを拒んだ。そこに映る、変わってしまった母親を見たくないから。 「……これでよかったのか?《 物陰から現れたセシルの言葉に、飃妃は無言で頷いた。先程までの、鋭い抜き身のような雰囲気は、既に散ってしまっている。そこにあるのは、ただの悲しい母親だ。 「泣いていたぞ《 隣に立つ。 「……いいんだ。子はいつか親から離れるものだ。あの子の場合、今回のことがいい機会になった。あの子は森の者ではない。いつかは外に出なくてはいけない。今回のことで私が最も危惧していたのは、あの子が外の者に対して強い恐怖を抱くようになることだった。しかし、結果は違った《 飃妃は、顔を上げてセシルを見た。 「あの子はお前達に出会い、救われた。そして、多くの人々に会い、外の世界に対して肯定的な印象を持つことができた。それはこの先あの子が生きていく上で、とても重要な意味を持つだろう。だから、今ここで、森という閉ざされた世界に戻ることは、あの子にとっていい意味にはならない。そう、私は思うのだ《 「……だから別れか。そう思っているのなら、そう言えばいいだろう《 「言葉だけでは足りない。もう、あの子は戻ってこなくていいのだ。人の世こそ、あの子の生きる場所だ《 寂しげな横顔を見て、セシルは口をつぐんだ。人の別れについて、語れるほどセシルはこの世に生きていない。子別れ、親別れを経験した記憶もない。まして、親になったことのない自分の言葉など、ただの戯れ言だ。 それでも、言いたいのだ。 「私は、そうは思わない《 伏し目がちで言葉をつむぐ。 「私は、そこまでイーリィが弱いとは思わない《 直視する勇気は、悲しいかななかった。 「イーリィは、強い。そして、それは戻ることのできる場所があるからだと思う。どんなことがあっても、自分を受け入れてくれる存在があるということは、どんな時でも心の支えになると思うから。今まで、私達と出会ってからずっと、あいつのままでいられたのは、心の支えである森の存在が、貴女の存在があったからだ《 思い浮かぶイーリィの顔は、時々泣いていることもあったけれど、それでも、そのほとんどが明るい表情だった。明るく、強い表情。たった一人、見知らぬ世界に放り出されたというのに、諦めても仕方がないというのに、決してあの子は諦めなかった。絶望しなかった。それは、拠り所のある強さだ。何もない者に、あの強さは宿らない。自分がそうであるように。 「だから、あいつは森に帰ってもいいんだ。勿論帰らなくてもいい。それは、あいつが決めることで、貴女が決めることではない《 思い切って上げた顔の正面に、飃妃の眼光があった。少し怯み、それでも、見返す。 「……そうかもしれぬ。私のしていることは、古いことかもしれない。しかし、これはけじめだ《 天を仰ぎ、目を閉じる。 「これは大人になる儀式だ。これであの子が這い上がれば、私はあの子を大人として認められる《 「這い上がれなかったら?《 「這い上がれないと思うのか?《 逆に問い返され、黙り、 「あいつは這い上がる《 「だろう。私が育てたんだ。そして、あの子はそれに応えられるだけの強さがあった。でも、今まではずっと私の庇護下にあった。でも、あの子はもう私の手を離れるべきだ。だから、ここでけじめをつける《 「今である必要があるのか? 折角再会できたのに《 「今だからだ。……私は、お前達が許すのなら、これからもずっと、あの子を連れて行ってほしいと思っているのだ《 * * * * 沢に下りて、膝を抱えて泣いていたイーリィの朊の裾を、引っ張る手があった。顔を上げると、サムが自分を見上げていた。 「なして泣いている?《 「……マーマに嫌われた《 サムが苦手なイーリィだが、今はそんなことを思い出す気力もなかった。拒絶された記憶が生々しく、全ての思考を止めている。 「嫌われた?《 頷き「怖い顔してた。俺、あんな怖いマーマ、見たことない。俺、嫌われたんだ《 また膝の間に顔を埋め、声を殺して泣く。声に出して泣くのは、聞こえそうで嫌だった。 「? 子別れじゃねーのか?《 ポツリと言われた言葉に、また顔を上げる。 「子別れだろう。親が子を認めたってこった。もう、一人で生きていけるまでに成長したと、認められたってこった。良かったじゃねーか《 「……子別れ?《 「んだ。いつまでも子が親にくっついていられるわけがねーだろ。いつかお互いが重荷になってまう。だからまず親が別れるだ。まだ自分の生きる力に気付いていない子の為に、親が突き放すだ。そうして初めて、子は自分に、たった一人で大地に立つ力があることに気づくだ《 うんうん、と頷く。 「辛いのは、親の方だぞ《 サムは言う。 「子はまだ先がある。未来があるだ。でも、親にはそれが少ない。ないわけではないがな。子を育てっるちゅうことは、大変なことだぞ。それでも親は育ててくれた。で、突き放す。子の為に。守る者と守られる者、別れが辛いのは守る者だ。なしてか分かるか?《 ふるふる、と首を振る。 「結局、守る者は、それを守ることで逆に支えられてるってことだ。守る者が強いってことだな。負けられないと思うだろう《 「うん《 「だから、守るものを自分で手放すことは辛い。支えを自分から手放すからだ。でも、そうしないと結局共倒れしてしまう《 「うん《 「親が子に望むのは、結局は子の幸せだ。子が一人で立てるようになって、親は自分がしてきたことを良かったと思えるようになる《 「……マーマは、俺の為にしてくれたのかな《 「当たり前だ《 「……えへへ《 やっと、イーリィは笑みを浮かべた。 * * * * 「私は、それを決めるのはイーリィだと思う。きっと、私達が反対しても、あいつがついて行きたいと思ったら、なんとしてでもついてこようとするだろう。そういう、強さがあると思う《 飃妃の申し出に、セシルは言葉を選んで返事を返す。セシルも、このままイーリィと別れてしまうのは辛かった。セシルはイーリィのことが好きだし、大切にしたいとも思っている。でも、イーリィのことを考えると、このまま自分達と別れて、母親である飃妃と森に帰るほうが、彼の為だとも思うのだ。なにより、自分と一緒にいることは危険だと思うのだ。 「ああ、強引な所があるからな。それもいい所だのだが。しかし、私は確信している《 「何をだ?《 「あの子は、結局はお前達についていくことを選ぶだろう。あの子は好奇心が強い。だから、外の世界に触れたいと思うだろうからな《 「どうして分かる?《 「母親だからさ《 その笑顔は、余裕のある微笑だった。 * * * * すっく、と立ち上がったイーリィを、サムは見上げた。そして驚く。初めて会った時に比べ、一回り大きく成長したように思ったからだ。流石は銀の尾の息子だ、そう思った。 「どこ行くだ?《 「マーマのとこ《見下ろし、言う。「俺、マーマのこと大好きだから。儀式をしても、俺はマーマから離れられない。あ、独り立ちしないってことじゃないよ。なんて言うのかな。結局は、心の中にマーマはいるんだ。その位置が、少し動いただけ。そういうのが、独り立ちって言うんじゃないかな。母親の、自分の中の位置が変わるの《 「ああ、そうかもしれねーだな《 「でね、決めた。俺、森には帰らない。まだ、帰れない。もっと、世界を見たいんだ《 初めの頃は、早く森に帰りたかった。森に帰って、皆に、マーマに会いたかった。でも、旅をしていくうちに、別の思いも浮かんできた。それは、世界をもっと見たい、世界にもっと触れたいという想いだ。でもそれは、折角自分を森まで送ってくれる三人に悪い気がして、ずっと口に出せずにいた。しかし、マーマと再会した今、儀式を経験した今、それは変わった。もう大丈夫、そう言われた気が今はする。もう大丈夫、森を離れても大丈夫、母から離れても大丈夫。心の中にいつも森は在り、母は居る。だから外に行ける。だから外に行きたい。世界を巡る旅についていきたい。足手まといになってしまうのは目に見えているが、それでも、ついていきたいのだ。 「だから、もう迷わない。マーマに言うよ、今までありがとうって。俺は、外に歩き出す《 頭の中の靄が晴れ、自分の進みたい道が見えた。もう大丈夫、迷わない。自分で決めたことだから。 「そっか、それは良かっただな。子がそう思ってくれる。それは寂しいが、嬉しいことだ《 「へへ……《 顔を見合わせ、笑いあう。 もう、自分は大丈夫だ。 やっと、自分独りで大地に立てた気がした。 「こんにちは《 いきなり空から声が降ってきたのは、まさにその時だった。驚いて見上げた四つの瞳に映ったのは、琥珀色に光る魔法杖にまたがった、蒼のパーカに身を包んだ少女の姿。十代の中間、空色の瞳が彼らを見つめている。 「えーと、ここがノイ・カイム?《 少女が言ったのは、この森の吊前だった。サムが頷くと、少女は顔を綻ばせ、ゆっくりと降りてきた。地に足を着き、杖を立てて、二人の前に立った。背はイーリィよりも高いが、セシルよりは幾分低いだろう。フードからはみ出た薄紫の髪が、風に揺れている。 「良かった。近くに穴がなくて、結構迷ったの《 「えーと、お嬢さんは誰だ?《 イーリィの掌に乗せてもらったサムが訊く。 「? 聞いてない?《 イーリィとサムは顔を見合わせる。そして、首を縦に振る。 「聞いてないの? おかしいなあ。ちゃんと話はつけるって言ってたのに《 ぷくっと頬を膨らませる姿は、実に似合う。 そこにいきなり突風が吹いた。イーリィは慌てて手を引っ込める。乗ったサムが飛ばされないようにだ。風が止んで、真っ先に口を開いたのは少女だった。「熾(し)志(し)! もう少し考えて!《 「わりーわりー《 男の声。振り向くと、そこには獣人の男が立っていた。隣には、普通のより少し大きい、白地に黒の縞を持つ虎がいた。男が乗っていたのだろう、その背には鞍がある。 「そいつらは?《 「今会ったとこ。私達のことを知らないって《 「は? なんだそれ?《 「私が聞きたいの《 「んー、でもまあ、あいつらしいといえばらしいけど《 「確かに。……えーと、初めまして、私はサリスって言います。あっちは熾志。私達、し……じゃなかった。ガルスって言う人のともだちなんだけど。知ってる?《 「――え? 兄貴の?《 イーリィのその呟きに、サリスと熾志は顔を見合わせ、次の瞬間爆笑する。 そんな二人を見て、ますますイーリィは困惑した表情を浮かべた。 |