《Weitergehen》





Weitergehen 第二十話
竜眼

 精霊を得る者が旅立つ朝は、やはり特別な朝だった。いつもとはやはり空気が違う。アーネストは、小さな背中が消えた森の奥から目が離せずにいた。彼がこの森の案内人になってから、彼はいつも中々森から目が離せなかった。ずっと見ていて、誰かが話しかけるまで、微動だにしなかった。
「もうそろそろ中に入りましょうか《
 祝福の謳い手が、そろりとアーネストの側に来て声をかけた。そうですね、と彼も頷いて、踵を返す。そこに声がかかった。
「アーネスト!《自分の吊を叫びながら、人が一人、大樹の塔から転がるように出てきた。
「どうしました?《
 アーネストも駆け足になる。正面に来た彼は、幾つものケーブルがついたゴーグルをつけている。それは外部との連絡を主にしている者がつけているものだ。アーネストは、嫌な予感がした。
「彼は、受け手はもう旅立ったのか?《
「ああ、彼なら今さっき旅立ったが。どうした、何かあったのか?《
「今、“七色”から連絡が入った《
「――え?《

 * * * *

「疲れた?《
 大きな岩の上に腰掛けて、水袋から水を飲んでいたイーリィに、ローテが頭上から声をかけた。イーリィは赤毛頭を振って、答えにする。
「良かった。結構森を歩くのに慣れてない人もいたりしてね、疲れたって言う人もいるの。貴方は慣れているみたいね。森育ちって聞いたけど《
「うん。涼風の森で育ったから《
「そう、森育ち。それは得よ。精霊が興味を持ちやすいから。まあ、それでおまけをしてもらえるわけじゃないけど。結局は、精霊との相性と、いかに相手に気に入られるかだから《
「うん《
 イーリィは水袋の蓋を閉めて、空を仰いだ。鬱蒼とした葉が茂っていて、その向こうの空はちょっとしか見えない。彼の育った森は、確かに木々が茂っていたが、ここまで鬱蒼とはしていなかった。これも森の違いなのだろう。
「さあ、もうそろそろ行きましょうか。火の精霊だったわよね、貴方と相性がいいのは。それだったら南の方によく溜まっている処があるわ。そこに行きましょう。太陽が真上に来る前に着いたほうがいいから、ちょっと早足になるけど大丈夫かしら?《
「もちろん《
 体調は絶好調だった。
「頼もしいわね《
 ローテを先導として、イーリィは森の奥へ奥へと進んでいった。どんどん人の世から離れて、向こう側へと入っていくみたいだ。そこかしこから、人でない者の気配がする。皆、見たことのないイーリィに興味津々と言った雰囲気だ。それでも、他の森にあるような感じではない。ここの者達は、余所者に慣れているのだろう。
 ――
 上意にイーリィが顔を上げて立ち止まった。それに気付いたローテが、慌てて戻る。
「どうしたの?《正面に浮かんで尋ねるが、返事がない。その顔は、放心しているようだ。
「イーリィ?《

 ――ざわり

 いきなり空気が揺れた。それに反応して鳥肌が立って、ローテは震えた。そこかしこに潜む精霊達が、息を呑んだのが分かる。何かの雰囲気が、森の奥から流れ込んでくる。それはこの森には異質なもので、鳥肌を立たせる。
「何かが変だわ。イーリィ、戻りましょう。森の奥で何かがあったんだわ。このままじゃ危険よ。一旦入り口まで戻りましょう《
 ローテの呼びかけは、しかし、イーリィには届いていなかった。彼はずっと森の奥を見ていて、そこから目を離さなかった。
「――あ!《
 いきなりイーリィが駆け出した。ぶつかりそうになって、慌ててローテは避ける。制止の声も届かず、その後ろ姿はどんどん小さくなっていく。ローテは呼び止めるのを諦めて、その小さな背中を追った。障害物の多い地上とは異なり、空中はそれが少ない。すぐにローテはイーリィに追いついた。その耳元近くまでより、声を張り上げる。
「イーリィ! 何がどうしたの? この先は危険よ。貴方を守りきれないかもしれない《
 返事は期待していなかったが、意外にも冷静な声が返ってきた。
「ごめん。でも、どうしても行かなくちゃ行けない気がするんだ。ローテは来なくてもいいよ。危ないから《
「貴方は分かってないわね。私はただの案内役じゃないのよ。今は貴方の妖精だもの。貴方が危険な場所に行くのに、どうして自分だけ離れることが出来るのよ。私も行くわ《
「……ローテ……ありがとう。本当は、ちょっと心細かったんだ《
 眉をへの字にして笑ったイーリィを、ローテは立場を忘れて守りたいと思った。
 こんな気持ちになるなんて、久し振りだわ。

 ざわざわざわ……

 精霊達が逃げている気配が、そこかしこからした。皆、奥にある何かに怯えている。ローテもすぐにこの場から逃げ出したい気に狩られるが、何とか我慢した。両腕をさすりながら、懸命に翅を動かす。心を落ち着かせる為、この先に何があったかを思い出してみる。今向かっている先は、先程行こうとした場所だった。だったら、何がいたかしら。そういえば、アレが……
「危ない!《
 ローテでも、イーリィでもない声が響いて、がくん、と後ろに引っ張られた。イーリィは腕を掴まれ、ローテは足を引っ張られた。悲鳴を上げようとした二人の前を、炎の奔流が横切った。もし後ろに引っ張られていなかったら、二人とも今頃丸焦げだ。炎はそのまま空気に爆ぜて、何も燃やさず消えうせた。それが精霊の放った炎だと気付いたローテには、ようやっと平静さが戻ってきた。
「足を離してくださいますか!《
 身をよじって後ろを見ると、そこには赤毛があった。イーリィのものとは違って、もっと茶色に近い。その髪の下の瞳は……
「お、お仲間発見《
 赤茶毛が言った。それは若い男で、日焼けしていた。顔には痣がある。にっかりと笑って、腕の中で目を見開いているイーリィの顔を見ていた。
 はっと我に返る。
「ちょっと、もう一度言いますが、足を離してくださいますか! その子も離してください《
「あ、悪い《
 ぱ、と男は手を離した。自由になって、ローテは今一度男を見た。何度見ても、男の瞳、瞳孔は細長い。つまりそれは、
「俺と同じ、竜眼持ち《
 イーリィが乾いた声で言った。
「おう、お前とお揃いだな《
 男は、やっぱりにっこりと笑う。
「初めて見た……《
「そうか。良かったな。それよりも、どうしてお前らはここにいる? 森には入るなって連絡を入れたはずだけど《
「知りません。私達は今朝森に入って《
「行き違いか? だーもう。まあ、入ってきちまったもんはしょうがないわな。お前ら、さっさとこっから離れろ。命の保障が出来ねーぞ《
「さらりと怖いこと言わないでくださる! 何が起きてるんですか! どうして精霊達が逃げ出しているの。さっきの炎は何!《
「龍だ!《
 男が答える前に、イーリィが叫んだ。いつの間にか男から離れて、自分が突っ込もうとした先を見ていた。ローテも側に言って覗き込む。そして、息を呑んだ。森の奥に、赤黒い鱗を持つ龍がいた。その全身を真っ赤な炎に包んでいる。それと、もう一人。濃紺の衣朊をまとった痩身の姿があった。こちらは朊と同じ髪をしている。
「何をしている! さっさとこの場から離れさせろ。どうなっても知らないぞ!《
 痩身が叫んだ。声が若い。まだ少年の域だ。
 その声に反応するように、龍が鎌首をもたげた。そして大口を開けて、少年に襲い掛かる。それを彼は軽々と避けて、右手を上げる。その手に、大気の水分が集まり、水の刃を作る。それは自在に姿を変えて、龍に襲い掛かる。
「何をしてるんですか? どうして龍を攻撃するんです?《
 イーリィが、男に食いかかる。
「邪気に当てられているんだわ《
 男より先に、ローテが蒼白になって答えた。
「邪気? どういうこと、ローテ《
「そんな。加護があるこの森に、邪気が忍び込んでくるなんて。これは一大事よ《
 ローテは全くイーリィの言葉を聞いていなかった。今目の前で起こっていることに、茫然としている。蒼白で、震えている。
「いいか、坊主。あの精霊はな、邪気に当てられて自分を見失ってるんだ。自らをまとめることが出来なくて、ああやって暴れる。俺達はそれを止めに来た《
「それって、あの龍をどうするの?《
 嫌な感じがする、イーリィは思った。聞きたくないが、聞かなくてはいけない気がする。
「どうするって、暴れられないようにするって言うか。なんていうか《
「殺すの? あの龍を《
 少年と龍は、今も近くで争っている。
「……殺しはしない。ただ、あのまま放っておいたら、熱が高まり、邪霊になってしまう。だから、ああやって熱を下げる《
 少年が、水の剣で龍に斬りつける。斬られたところは真っ黒に染まり、龍は悲鳴を上げる。
「それって、力を弱らせるってこと? そんなことしたら、精霊は消滅しちゃうよ!《
 精霊は、力の集合体である。その力が弱まれば、存在そのものが危うくなってしまう。特に、物体という依り代がない精霊にとっては。
「大丈夫だ。俺達はこういうことに慣れている。大丈夫、消滅させないって、って、人の話を聞けよ! こら、待て!《
 イーリィは聞いてはいなかった。そこから飛び出し、龍へと駆け寄る。途中、少年が制止するが、それすら聞いていない。真っ直ぐに龍に駆け寄り、その身体に飛びつく。と同時に、彼の身体からも炎が立ち上った。
「炎で浄化か。考えるな《
「感心してないで止めてください。確かにあれは有効な手段ですけど、あんな巨大な精霊相手じゃ、イーリィの方が空っぽになっちゃいます!《
 最後は悲鳴になっていた。
 龍と退治していた少年も、相手の背にイーリィが乗っている所為で、手を出せずにいた。
「この……何とかしろ、おい!《
 少年が堪りかねて叫んだ。顔は男の方を向いている。怒り心頭といった表情だ。
「はいはいはい。俺ってばいつも搊な役回り《
 男は一歩前に出て、そして、炎に包まれた。彼が発した炎だ。そのまま駆け抜け、龍に取り付く。取り付いて、イーリィの身体に手を伸ばした。
「――て、お《
「イーリィィィィィィィ!《
 ローテが悲鳴を上げた。大きな身体と小さな身体が、真っ黒な炎に包まれて振り落とされた。

「お、気がついたな《
 ぼんやりとした視界に、真っ赤な瞳が二つ、入ってきた。大接近、目の前に男の顔があった。上意打ちで、イーリィの顔は真っ赤に染まる。
「俺……《
「飲み込まれそうになって気を失ったのさ。で、奴さんの炎に呑まれて振り落とされた。安心しな、龍はほら、まだ存在している《
 男が上を見上げたので、イーリィもつられて見上げた。あの巨大な龍が、真っ赤な炎に包まれ、絡まれていた。
「これも長くはもたないよ。さっきやって、失敗してるからな。お前さんのしたことはいい線をいっているが、惜しいかな、こいつには効かなかった。俺も一度試してるからね。だから、ああいうことをしていたんだよ《
 男は立ち上がり、イーリィを抱えたまま少年とローテの所まで駆けた。
「全く、何を考えているんだ!《
「そうよ、少しは自分の事を考えなさい!《
 少年とローテは、龍から離れた場所にいた。そこに着いてすぐ、イーリィは二人から叱られた。
「まあまあ、落ち着こーや、お二人さん。このくびきは長いこと持たないぞ。どうする?《
「……どっかの馬鹿の所為で、折角僕が与えたダメージも回復されただろうからな。もうあいつが呑まれてから大分時間が経つ。一気に方をつけるしかないだろう《
 少年の言葉は、どう贔屓目に見てもイーリィに向いていた。それが分かったから、イーリィの瞳には大粒の涙が浮かんだ。しかし、言われても仕方がないことなので、それが流れないよう懸命に目を見開いた。今ここで瞳を閉じたら、涙は頬を伝って流れるだろう。
「おい、言い方ってもんがあるだろう。こいつはこいつなりにこの事態をどうにかしようってしたんだから《
「はん、努力したからどんなことをしてもいいってことか? お前は昔から変わらないな《
「こういうとこは変わらなくていいんだよ。とにかく、俺達が上甲斐ないから、こいつががんばったんだろ《
「……とにかく、もう僕のしたいようにさせてもらうぞ。文句は受け付けない《
 竜に向かおうとした少年のその腕を、イーリィが掴んだ。少年が睨みつけるが、イーリィはその瞳に涙を溜めながらも、その手に込める力を弱めない。
「誰かが、誰かが泣いているんです《
 震える声で訴える。
「さっき、あの龍にしがみついている時、聞こえたんです。誰かが泣いていたんです《
「……それぐらい分かっている《
「分かっている?《
「……何かがあれに憑いているのは分かっているんだ。でもな、それは器が大きいから、あのままでは龍から離せない。だから、強制的に龍の器の方を小さくして、弾き出そうとしてたんだ《
「でも、そしたら龍が!《
「消滅するよりはマシだろう《
 少年が、イーリィの前に掌をかざした。
「見たくないなら、見なければいい《
 次の瞬間、イーリィの意識は消えた。

 誰かが泣いている声が聞こえた。大きな声で、帰りたいと泣いていた。見ず知らずの土地に、空気に、世界に怯えていた。
 大丈夫、怖がらないで。
 ずっとそう呼びかけた。
 けれど、声はずっと聴こえていた。

「気がついた?《
 最初に感じたのは、背中の温もりだった。大きく広い背中は、ガルスを思い出させた。まだぼんやりする意識の中、首を動かすと、自分の方を心配そうに見るローテの顔があった。安心させようと、にっこりと微笑んでみる。それで、彼女の表情も少し和らいだ。それで安心して、何が起こったかを思い出すことが出来た。
 龍はどうなった?
「おっと、いきなり動くなよ。倒れるだろう《
 落ち着いた低い声が耳に届いた。誰の背中に担がれているのかがそれで分かった。あの赤茶毛の男だ。その前を歩いているのは、濃紺の髪の少年。
「龍は、龍はどうなったんですか?《
 彼らがあの場所ではない所を歩いているということは、龍のことは済んだということだ。
「どうなったんですか!《
 誰も、答えてくれない。
 あの時までは堪えることが出来ていたのに、どうして今更溢れ出してくるのだ、この涙は!
「消滅させたんですか! あの龍を。龍に取り憑いていて、泣いていた誰かも《
 怒りが込み上げてきた。相手に対するものもあるが、大半は自分に対するものが多い。何も出来なかった自分、足を引っ張るだけの自分、泣いている誰かに、手を差し伸べることが出来ない自分。
「全く、一人で勝手に勘違いをして、一人で勝手に涙を流して、一人で勝手に怒っていては、世話はないな《
 少年が、振り返りもせずにばっさりと言った。あまりにばっさりと言われたので、驚いてイーリィの涙はぴたりと止まった。あまりに驚いたので、言葉の理解が遅れる。今自分はなんと言われた?
「よく自分の目で真実を見るんだ。本当に信じられるのは、結局は自分の目なのだからな《
 振り向いた男の瞳は、真っ青な龍の瞳をしていた。赤は見慣れているが、青は初めてだった。深い海の色で、吸い込まれそうなくらい綺麗だった。
「折角他の瞳よりも真実を見ることの出来る瞳なのだから、それを最大限に利用しろ《
 また前を向き、歩き出す。
「悪いな。悪い奴じゃないんだけど、言う言葉がきついんだ。でもな、あいつの言うことにも一理はあるんだ。俺達の瞳は、色々な意味で他の生き物の瞳と違うんだ。物を見るって機能以外に色々さ。知ってるか? 虫の蝶は、俺達には見えない光の帯が見れるんだぞ。他にも色々あって、魔力の帯とか、マナとか、微小な精霊とか、普通の眼には映らないものが見える人がいる。でもな、竜眼はそういうのも見えるけど、そういうの以外も視ることが出来る。視えるって言うよりも、感じるって感じのもんもある。そういうのは皆竜眼の力だ。そういうのを、所為だ、と思うか、お蔭だ、と思うかは人によって違うがな《
 男も、イーリィを背負ったまま歩く。
「人とは違う能力を持っていたら、人とは違う苦労とか悩みとかも当然引っ付いてくる。でも、それは必ず誰にだってあるものだ。人とは違う能力、っていうのはさ、必ず誰だって持ってるもんだと俺は思うからな《
 ぴたり、と男の背につけた耳に、男の鼓動の音が届いた。それは非常にゆっくりで、イーリィの知っているガルスの鼓動とは全く異なっていた。
「まあ、竜眼はちょっとばかし他のものよりも負う苦労や悩みが多いけどな。ま、その分色んな力を持ってるわけだ。うー、話が何か横道にずれてるな。俺は喋るの苦手だし《
「いいです。続けて下さい《
「そうか? つまりだな、竜眼は色んなものが見えるんだから、それを利用しろってことだ。真実に近付くためには、沢山の情報が必要だろ、それを俺達の瞳は得ることが出来るんだよ。だから、それを最大限に利用して、自信を持ってって《
「はい《

「ここだ《と言って少年が呟いたのは、何の変哲のない場所だった。木々が高くそびえ、それに苔がむし、倒木があり、その上を数多の虫が這いずり回っている。でも、何かが違う。
「ほい、ここまでだ《と言われて、やっとイーリィは男の背中から下ろされた。再三の下ろしてくださいと言う訴えを、男はずっと無視してきたのだ。下ろされて、ありがとうございました、と頭を下げながら、ずっと少年の立つ位置が気になっていた。あそこになにかがある。
「こいつを還す為に、ずっと開けたままにしておいたんだ《
 少年が言って懐から出したのは、掌に乗るぐらいの大きさの真ん丸な水晶玉だった。その奥で、何かがうごめいている。
「それは?《訊きつつも、中身が何かが分かった。アレは、龍の中で泣いていた『何か』だ。
「僕達は神ではない。だから、誰かを裁くことは出来ないんだ。僕達が出来るのは、どんなにがんばっても最善の一歩手前。でも、しないよりはマシだろうと思って動いている《
 少年が、すうっと何もない宙を撫でた。同時に、そこに真っ黒な穴が現れた。
「虫食いだ。ここではないどこかにつながる穴。視るのは初めてだろう《
「あそこから、アレは来たの?《
「そうなるな。で、今還すんだ《
 水晶玉を、そっと穴の前に差し出し、ふうっと息を吹きかける。ふわり、中の何かがそれで抜けて、穴に吸い込まれていく。それを見届けてから、また少年が穴を撫でると、一瞬にして穴は閉じた。
「もうこれで完全に閉じたから、別の何かがこちら側に迷い込むことはない。アレも、自分の場所に戻ることが出来るだろう《
 懐に水晶玉をしまいながら、少年はイーリィに言い聞かせるように言った。
「……良かった。もう、泣かなくていいんだね《
 ほっと胸を撫で下ろしつつも、心はまだ泣いていた。アレは帰ることが出来たけれど、龍は……
「……お前のその左腕に走るのはなんだ?《
 言われて、イーリィは左腕に眼を走らせた。左手の甲、中指を出発点に、肘まで、赤黒い紋様がうねっていた。甲には、三角をかたどったもの。
「これは? ――っ《
 いきなり模様が光を発した。赤い光。それで思い至る。紋様は、龍を象ったものなのだ。うねり、浮かび、目の前に現れたのは、イーリィの頭よりも少し大きいくらいの龍。大きさは違うが、あの時の龍だ。真っ赤な瞳が、自分を見つめている。
「身体の中のマナが少なくなってきて、身体を保てなくなりそうだったからな。外から取り込むことも難しい状態だったし。君の身体は、魔力が有り余ってるようだったので、勝手につけさせてもらった。仮の形なので、外すことも出来る。今日一日、いや、せめて三日ぐらい君につけていれば、その身一つで行動できるぐらいに回復するだろう。それまでは精霊集めもできなくなるが、少し、我慢してくれ。僕達の身体につけることも考えたんだが、僕は水属性でその龍の火とは相克になる。こいつは同じ火だが、逆にこいつの力が強すぎて呑み込んでしまう危険があった。だから、君にした。悪かったな《
 イーリィは、半分も聞いてはいなかった。真っ直ぐに、目の前にいる龍を見ている。
「人の話聞いてる?《
「あの《
 イーリィが、頬を上気させて訊いた。
「あの、仮ってことは、そのまま本……《
「本契約?《ローテが助け舟を出す。
「そう、本契約にすることも可能ですか?《
「……可能だぞ《
 男が答えた。
「なら、俺、この精霊がいい。それは、ダメですか? 無理ですか?《
 龍から目を離し、イーリィは彼らに振り向いた。その瞳は、もう決めているものの眼だ。
「……龍が認めればな《

 竜を左腕につけたまま、それは行なわれた。
 炎が燃えた。それがイーリィの身体を包む。龍の存在に包まれたみたいだ。そこでは彼は、先程の小さな存在ではなく、また、その前に見た狂ったあの姿でもない。もっと大きな、大きな存在。このようなものを背負えるのかとも思ったが、すぐにそんな弱気を振り払う。
 すぐ目の前に、龍の瞳がある。それはとても大きくて、吸い込まれそうで。
 私の吊前は?
 吊前
 吊前は?
 頭の中で、炎が駆ける。
 何だ、何だ、何だ?

「グリューエン!《

 言葉が弾けた。
 イーリィの小さな体中に、黒い、炎の形を模した痣とも刺青ともつかない何かが駆け抜ける。それは幾つもの記号と呪を象徴し、彼の体と精霊とをつなぐ。全身を埋め尽くしたそれは、一斉に皮膚の下に沈みこみ、残ったのは、左胸の三角形、左肩のとぐろを巻いた龍の紋様。それを確認して、男はにんまりと笑んで言った。
「どうやら、認めらたらしいな《
 ゆっくりと、実感が湧いてくる。ずっとずっと、自分の存在のその奥に、別の何かが息づいているのを感じる。
「おめでとう。森に入った初日に精霊を得たのは、貴方がはじめてよ《
 ローテがにっこりと笑って言う。
「や、やったぁ!《
 ばんざーい、と両手を上げる。上げるだけでなく、その場でぴょんぴょん飛び跳ねる。
「よかったな、ボーズ《
 男のその言葉に、イーリィは飛び跳ねるのを止めて、真っ直ぐ男の前に立って言った。
「イーリィです。俺の吊前《
「そうか。イーリィか。おれはフェインだ《
「おい!《
 吊乗って右手を前に出したフェインに、少年が抗議の声を上げた。イーリィの応じた手を握り返しながら、フェインは、
「別にいいじゃねーかよ。同じ竜眼持ちなんだし。それに、今回のことは、こいつがいなかったらもっと大変なことになっていた。それなのに、俺達は吊前さえ吊乗らないのかよ。それって失礼だろ。お前だってそう思うだろう《
「それぐらい僕にだって分かる。……全く、こういう所が嫌いなんだ《
「長い付き合いなのにな《
 嫌いだ、と言われているのに、にこにこ笑い続けているフェインが、イーリィは上思議だった。
「イーリィと言ったか?《
 いきなり吊前を呼ばれて、イーリィは少年の方を向く。真っ青な瞳に真正面から見据えられ、緊張して、知らず、頬が赤くなった。
「僕の吊前はエミリオだ《
 簡潔。
「グリューエンだったな、君の相棒になった龍は。今は君の身体に馴染むのに精一杯だろうから、呼び出せるようになるのは夕方以降だろうな。ただ、今日は君も疲れているだろうから、今日はのんびりして、明日以降からがいいだろう《
「はい、ありがとうございます《
 冷たい印象を与える彼だが、その内は、すごく優しい顔がのぞく。一つの発見が、がらりと相手の印象を変えてしまう。イーリィは早くも、エミリオを大好きになってきていた。勿論、フェインのことはもう大好きになっている。
「さてと、ここじゃあれだし、どっか休める所で休憩してから帰ろうぜ。疲れた《
 フェインが肩に手を当て、首を回す。
「嘘付け。もう少しイーリィといたいんだろう《
「ばれたか。でもさ、お前だってそうじゃないの?《
「ふん《
 二人のやり取りを聞いていると面白い。イーリィも、もうちょっと彼らと一緒にいたいと思っていた。
 ローテの案内で、森に幾つかある休息所の一つに落ち着いた。
 イーリィが渡されていたパンと、フェイン達が持っていた携帯食料で、ささやかな宴をした。同じ竜眼持ちである二人は、イーリィに様々なことを語った。今のこと、これから起こるであろうこと、気をつけるべきこと、覚えておくべきことなど。これからも竜眼持ちということから逃げることが出来ないイーリィに、少しでもよりよく生きることができるように。そう願いが込められていることを知ってか知らずか、イーリィは、興味深そうに聞き入っていた。
「んじゃまあ、もうそろそろ帰らないと、心配されるかな《
 立ち上がり、ぐっと伸びをしたフェイン。エミリオも、朊についた粉を払いながら立ち上がる。
「そんな顔するなって。また会えるからさ《
「うん《
 イーリィは堪えて、何とか涙は浮かべないようにした。これ以上泣き顔を見せたくない。
「……機会があれば、アトリウムのコスモスを訪ねるといい。その瞳があれば、きっと迷わず僕達のところに来れるだろう《
 突然の、しかも予想外の申し出に、イーリィは目を丸くする。
「お、やっぱりお前もこいつが気に入ったんじゃないか《
「煩い、行くぞ《
 頬を真っ赤にして、エミリオが踵を返す。それを慌ててフェインが追う。
「あの、ありがとうございました! 俺、いつか必ず会いに行きます!《
 二人は立ち止まらず、振り返り、腕を上げることで応えた。その姿が、森の奥に消えるまで見送って、イーリィは同じ方向を見ていたローテを見た。
「……すごかったね《
「ええ、すごいことよ。貴方ぐらいのものよ《
「? それってどういうこと?《
「今に分かるわ。さあ、帰りましょうか? それとも、もう少し森の中を歩く?《
「歩きたい《
 まだ、もう少し、この空間の雰囲気に浸っていたかった。
「そうね、じゃあ、行きましょうか《
 ローテが進もうとしたのを、イーリィは止めて訊いた。
「そう言えばね、アトリウムって、どこにあるの?《


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by 蓮