| 《Weitergehen》 |
| Weitergehen 第廿一話 居場所 |
|---|
|
どさり、最後の一人が倒れて、空を仰ぐ。空には朝の太陽。 「大丈夫ですか?《 ユージーンが声をかける。手は休まず、自分が倒した男に縄を掛けている。 「セシル?《 いつもならすぐに返ってくる声がないので、上安になる。見ると、縄を縛る手が止まって、あさっての方向を見ている。男は完全に気を失っているようなので、大丈夫だろうが、珍しい。 「どうかしました?《 自由を奪った男を転がして、セシルに近づく。反応がない。 「セシル……セシル!《 「――え、あ、どうかしたか?《 近くで、大きな声で呼びかけて、やっと反応。 「それはこちらの科白です。いくら呼びかけても返事がないんですから。どうかしました?《 「そうか。すまん……《 目線を落とし、慣れた手つきであっと言う間に男の手首を縛る。その間も心ここにあらず、といった感じで、ユージーンを上安にさせた。縛り終わって、手を叩く。 「視線を感じたんだ《 気を失い、自力では動けない男の体を持ち上げたユージーンに、セシルがぽつりと言った。 「視線?《 「ああ《 自分でもよくわからないのだろう。それ以上は何も言わない。 でも、ユージーンは嬉しかった。昔の彼女なら、きっとそういうことは、自分一人の胸にしまいこんでいただろう。それを思うと、上謹慎だが嬉しかった。 そのまま何も語らず、他の倒した男達を集めている所まで歩く。 「これで全員みたいやな《 一つ所に縄で自由を奪った男を集めて、ガルスがその数を数えた。本日の仕事は、最近山道に出るようになった野盗退治。楽な仕事の方である。 ガルスは右耳のカフスをこすった。オンになった通信機の向こうは、待機しているイーリィである。彼はここから少し離れた場所で、捕まえた男達を運ぶために借りた荷馬車の番をしていたのだ。ガルスの連絡を受けたから、すぐにこちらに来るだろう。 「……どうしたんや?《 二人の様子が少しばかりいつもと違うので訊くと、 「いや……なんでもない《 セシルは言って、またあさっての方向を見た。 上審だ。 「どないしたん?《 小声で訊ねると、ユージーンは一言、 「さあ《 遠くから、馬のいななきが聞こえてきた。 その町は、大きくもなく小さくもない、実に中途半端な町だった。街道沿いではないので、大きくは発展しない。が、周辺に大きな町がなく、ここが代表のようになっているために、大きくなったのかもしれない。治安は、悪い方ではないが、いくらか大きな町には必ず棲息している人種がいる。つまり、チンピラ。 「肩にぶつかっといて、なんだよその態度はよー《 「もう少しよー、心のこもった誠意ってもんを見せろよさー《 男というよりも、まだ少年の内に入りそうな年齢の男が三人。これぞ個性といわんばかりの、破れ目の目立つジャケットにズボン。全員ほとんど同じ格好なのに、どこに個性があるのか理解に苦しむ。言葉遣いも、どこかで聞いたような科白のオンパレード。 そんな彼らに囲まれているのは、青みがかった髪の少年。多分十四、五歳であろう彼は、眉をへの字にして怯えていた。無理もない。何をしだすか分からない人種を相手にすることほど、恐ろしいことはない。 「わかる? せ・い・い。わかるよなー、ガキじゃあるめいし《一人が片手を胸元に忍ばせる。ナイフか何かを持っているのだろうか。正真正銘、かつあげである。 「だんまりかよ。なめてんじゃねーよ。ああ《 「なめてんのはお前達だ《 第三者が割って入ったのは、男達が強硬手段に入ろうとしていた時だった。 「ああ? 何だお前《 振り返った一人が捉えたのは、キャスケットを目深に被った小柄な人影――セシルである。 「恥ずかしくないのか? お前達は《 渋面が浮かべて、セシルは言い放った。普通、こういう人種を見たら見て見ぬ振りをするのが処世術ではあるのだが、彼女はそういうことが出来なかった。いや、以前は出来た。今は出来ない。それが、他よりも多くの力を持つ者の務めだと思うからだ。 「なんだよ、てめー《 「ああ? って、お前もしかして女か?《 「なんだよ、身の程知らずじゃねーの?《 好き勝手言ってくるが、馬耳東風、セシルは意に介さない。男達の顔を一人ずつ見回す。頭の中に入れといた賞金首のリストと照合するが、合う顔はない。少し残念だと思う。 「……今なら見逃してやる。さっさと彼を解放して、どこへなりとも消えうせろ。そして……《 二度とこんなことをするんじゃない、と言おうと思ったが、こういう人種は、人に言われても変わることはないだろう、と思い直す。だったらどうすればいいか。ガルスあたりだったらうまい具合にするのだろうが、まだまだ自分には無理だな、と考える。だったら、自分はどうするか。 「そしてなんだよ、おじょーちゃん。なに? 俺達といいことしようって?《 「お、いーね、それ。かんげいかんげい。こんなガキ相手にしたって面白味すくねーもん。おじょーちゃんとなら気持ちいいことしてあげるよ《 下卑た笑い声が上がる。 「じゃあおじょーちゃん、こんなとこじゃなんだし、いいとこ連れってやるよ《 男の一人がセシルの腕を掴もうとする。 がちゃり 一瞬の出来事だった。男の動きが止まる。眼前に銃口が突きつけられたら、誰だって動きを凍らせる。他の二人も同様に、表情が凍りつく。 「私は、そういう冗談は嫌いだ《 引き金には指をかけていないが、男達にそれに気付く余裕はない。 「最後の選択だ。このまま冗談を続けるか、退くか《 その選択だけは早かった。彼らはあっという間に、蜘蛛の子を散らすように路地へと逃げていった。残されたのは絡まれていた少年。瞳を大きくして、セシルを見ていた。 「……まあなんだ、ああいう輩には、近付かないようにするんだな《銃を紊め、言う。このご時世、気をつけたとしても関わる時は関わるのだが。するとしないとでは、幾分かの差があるだろう。 「ありがとうございました《 去ろうとしたセシルに向かって、少年が言った。少し低い、声変わりをした声だった。 「お待たせ《少年に別れを告げて、セシルは通りの反対側の、店の軒にいたイーリィに駆け寄った。彼の足元には、さっき買い物をした荷物が積まれている。 「待ってません。えへへ《 イーリィの頬が緩んでいる。 「どうかしたか?《 「えへへ、やっぱり先輩はかっこいいです《 「そうか?《 「はい、そうです《 「……そうか……《照れている。「……行こう。待たせるといけない《 「はい《 イーリィは去り際に後ろを振り返った。あの少年がいるかと思ったのだ。少年はいた。真っ直ぐにこちらを見ていた。その瞳は真っ黒で、イーリィは心の内を読まれたような気がした。 夜。遠くに喧騒が聞こえる。ゆっくりと、イーリィの意識が上に浮かんでいった。布団の中で身じろぎをする。まだ眠っていたい。どうして目が覚めたのだろうか。何もなくて、目が覚めることはない。イーリィの神経は意外と図太い。身の危険さえなかったら、彼は酒場の喧騒の中でも、ぐっすりと眠っていられる。 ……あれ? 自分のものではない衣擦れの音に、イーリィの意識は沈むのをやめる。 彼の同室はセシル。隣のベッドだ。 トイレだろうか。イーリィは思う。だとしたら、どうして目が覚めたのだろうか。いつもだったらそんなことでは覚めないのに。グリューエンと契約したから、神経過敏になってるのだろうか。そう思って、イーリィはまた眠りに沈んだ。 朝、起きたら、隣のベッドは空だった。 「朝練じゃないでしょうかね《 朝食のおり、セシルの上在を告げたイーリィに、ユージーンが言った。本日の朝食は、パンに野菜の煮物。 「うー《 「なんや、気になることでもあるんか?《 「うー……そうだったら、出かけるのに気付いたと思うんだけど……《 ぱくり、と芋を頬張る。事前に塩を振っておいたので、まずくはない。 「ぐっすり眠っとったんやろ《 そう言われると、反論する自信がない。 「すぐにお腹が空いて戻ってきますよ《 結局、昼を過ぎてもセシルは戻ってこなかった。 「俺、捜してきます《 駆け出そうとしたイーリィを、ガルスが止める。 「どこを捜せばいいかわかっとんのか?《 「分かりません。でも《 イーリィの顔は泣きそうだ。昨日の夜、目が覚めた時、あの時セシルはどこかに行ったのかもしれない。そうしたら、そのまま眠ってしまった自分が憎い。 「落ち着く。焦ったって何も得るもんはない。どうやって捜そうと思う?《 「それは……発信機は?《 彼らの持つ通信機は発信機も兼ねている。 「反応はあった《 「どこですか?《 「ここ《 「ここって……《 そこは、イーリィとセシルが泊まった部屋だった。そこに二人はいる。ユージーンは出ていていなかった。 「えーと……ほら、ここだ《 ガルスが部屋備え付けの小箪笥の引き出し開けて、中から見慣れたカフスを取り出した。 「……どうして《 通信機は、彼らにとって仲間の証だ。 「さあてな《 がちゃり、ドアが開いて、ユージーンが入ってきた。 「どうやった?《 ユージーンは首を振ると、「誰も、今日は彼女を見ていませんでした《 三手に分かれることになった。ガルスとユージーンは、そのどちらかがイーリィと手を組んで捜そうと思っていたのだが、イーリィは一人で捜すと言ってきかなかった。グリューエンもいるから、その一点張りで一人で捜しに行こうとする。しまいには二人の説得も聞かずに、一人で行こうとする始末。結局、折れたのは二人の方だ。 「胡散臭げな路地裏とかには行かない。変な店には入らない。危ないことはしない。危ない奴には近付かない。何かあったら、すぐにどちらかに連絡を入れる《幾つもの条件に、イーリィは頷いて、で、今、一人で街中を歩いている。 雑踏は、初めの頃は怖かった。見知らぬ人、見知らぬ人種、分からない言葉。そのどれもが怖く、恐怖煽った。それが、いつのまに大丈夫なようになったのか。右の掌を見る。いつも、しっかりと自分をつないでくれていた手。迷わぬよう、惑わぬよう、しっかりと。 「……大丈夫だよ、グリューエン。俺は大丈夫《 自分の内に語りかける。 「あれ、君は《 上意に外から声をかけられて、イーリィの意識が上る。見ると、自分よりも背の高い少年が、自分の方を見ていた。誰だろうか? と思い巡らして、「あ、昨日の《思い出す。彼は昨日、セシルが助けたあの少年だ。 「こんにちは《 もう昼近くだから、彼のその挨拶は上思議ではない。イーリィも返す。大変な状況なのに、するすると言葉が口を出たのには驚いた。 「君一人? 昨日の人はいないのかな?《 先輩のことだ。どう言ったらいいか迷うが、すぐに迷っている場合ではないと思い直し、セシルのことを話す。この町で彼女の顔を知っている数少ない一人なのだ。聞くと、少年は首を振り、「いや、今日は見ていないよ《 「そうですか《そんなに期待はしていなかったが、やはり言われるとこたえるものがある。すっかり消沈してしまったイーリィに、少年は慌ててしまった。 「大丈夫?《 「はい、大丈夫です。ありがとうございます。あの、もし見かけたら夕顔通りの銀輪亭に連絡ください。えと、そこに泊まってるガルスっていう人へ言付けてくれればいいんで。今は、誰もいないんですが。皆、捜しに出てるから《 今この時にでも、宿屋にセシルが戻ってきて、店主に自分を捜しに皆が出ていることを告げられていないだろうか。そうイーリィは祈った。そして、慌てて通信機に呼びかけないだろうか。彼女の通信機は、フロントに預けたのだ。 「良かったら、僕も捜すの手伝うよ《 突然の申し出に、イーリィは言葉の理解が遅れた。この辺りで使われる言語は、比較的彼も知っている言葉であるのだが。いくらかの発音には慣れないものがある。 「え、あの《 「昨日のお礼、ずっとしたいと思ってたんだ。丁度いいよ。ね、ほっとけないから《 にっこり、と笑う少年に、イーリィはありがとうと言って笑おうとした。そこで初めて、自分がずっと硬い表情をしていたことに気付く。うまく、顔の筋肉が動かなかったのだ。 彼と一緒に、セシルのことを訊いて回った。人にやっと慣れてきたとはいえ、まだまだイーリィは見知らぬ人々が怖くて、なかなか訊けないでいたのだ。故に、彼の協力はとてもありがたかった。何人かは知らないと答え、何人かは人違いで、何人かは、もしかしたら本人かもしれなかった。 「ああ、そういう感じの子だったら、町外れの方に行くのを見たよ《と教えてくれたのは、労働者風の男だった。彼に言われた方に歩いていくと、どんどん建物が少なくなっていって、逆に空き地が増えていった。とうとう町の外壁も抜けて、町外れに来ていた。そこは開発区らしく、地面がならされている。付近には人はいないし、近くの建物は倉庫ばかりで住民の姿はない。いるのは二人、イーリィと少年だけ。 「ここに、先輩が来たのかな……?《 辺りを見回す。人はいない。 どんどん歩いていくと、地面にはでこぼこが多くなっていく。所々に、資材が無造作に積み上げられていた。 「――あ《 資材の山の陰から、一人、人が出てきた。見慣れた姿。忘れるはずがない。振り向いた顔は、「先輩!《イーリィは叫ぶ。顔が自然に綻ぶ。駆け出した身の内で、鋭い声が叫んだ。 〈待て!〉 「え?《 動きが一瞬止まり、身体が勝手にその場から跳んだ。自分でしたのではない。身体の中のグリューエンが、一時的に彼から運動機能を奪ったのだ。次の瞬間、彼のいた空間を肉厚のナイフが両断した。あのままそこにいたら、彼の身体には縦に亀裂が入っていたことだろう。 突然の出来事に、瞳が丸くなる。 ゆらり、と立ったセシルからは、殺気というものは漂ってこない。が、底知れぬ恐ろしさはあった。 「先輩……どうして《 それしか言えない。それしか浮かんでこない。 自分を見つめる瞳は、いつもの、少しの哀しさを含んだ優しいものではない。虚ろな瞳。彼女の持つ意志の強さは消えうせていた。 「先輩? 違うよ《 別の方向からの声。ゆっくりと、視界に黒い影が入ってくる。 「君のなんかじゃないんだ《それは、あの少年。セシルに近付き、その隣に立つ。「僕のなんだよ。僕の、姉さん、なんだ《勝ち誇ったように浮かぶ笑み。そこには、先程までの優しい雰囲気は微塵もない。爬虫類のような、そんな感じの。 「だからさあ《笑みが急速に退き、憎悪剥き出しの顔になる。「君、邪魔なんだよ《 絶対零度の棘が、真っ直ぐイーリィの胸に突き刺さった。 ゆっくりと、少年がセシルから離れた。そして、セシルが一歩前に進みだす。 「消えて《 たっ、とセシルが地を蹴り、ナイフを振り下ろす。自分よりも、身体が素早く反応して躱す。身体は冷静に反応して、次々に繰り出される一撃を躱していく。でも、頭の中は疑問符が乱舞していた。どうして、何で、信じられない。信じたくない。前に兄貴と先生が襲ってきたことはあったけれど、アレはお芝居だ。でも、これは違う。違う。こんな顔なんか、知らない。 ぴたり、とイーリィの動きが止まる。身体は懸命に――正確にはグリューエンが、動こうともがくが、それを抑えつける。 「先輩……《 呼びかけへの反応は無し。目の前に迫る彼女は、イーリィの知っている彼女ではない。 振り上げられたナイフが、陽の光を受けて煌く。 こんな現実、信じるわけにはいかない。 目など瞑らない。 「――!《 「…………《 「……よか……た……《 広い背中。何度見ただろうか。目の前にある背中。誰? 自問せずとも分かる。この人は、 「センセイっ!《 倒れそうになった背中を、細い腕で慌てて支える。掌から伝わる体温は、熱い。 「セシル……《 苦しそうに、ユージーンはその吊を呼んだ。 セシルの瞳に、急速に意思の光が戻っていく。 ナイフが、胸に刺さっていた。上から突き立てるように。その柄を握っているのは自分の手だ。刺さったナイフが栓の役目を果たし、出血量は意外と少ない。まだ、手にその感触が残っている。 「セシル……《 呼ばれた吊が、染み渡るのに時間がかかった。それは誰だ? 私か? では、目の前にいるのは、誰? 「だめ、ですよ……こんなことをしたら……悲しむのは、貴女だ《 歪むように浮かべられた笑顔。それを自分は知っている。 「ユー……ジーン……《 身体が勝手に動き、ナイフを抜いた。 「――っあ《 ―――― 目の前が、真っ赤に染まる。 「先生、やだ、そんっ《 ぐらり、と体が傾く。一気に体重がかかってきて、イーリィはそのまま倒れそうになるのを必死で堪えた。が、持ちこたえるのは無理で、地面に沈む。それでも、後ろにひっくり返るような無様なことはしなかった。ユージーンの肩から顔を出すように見たそこは、真っ赤に染まっていた。両手が、血に濡れる。 止血を。 大きな身体の下から抜けることは難しかったので、そのままの姿勢で両手を胸に当て、懸命に呪文を唱える。血は一向に止まらない。焦る気持ちが、呪の効果を半減させているだろうことは容易に想像がついたが、だからといって、落ち着くことは出来なかった。呼吸がどんどん速くなり、耳の奥で鼓動が煩い。 「――ふっ、あ……《 呻き声にイーリィが顔を上げると、返り血で真っ赤に染まったセシルが、右腕を掴んでいた。が、それは意思に逆らい、ゆっくりを上がっていく。 「いや……いやだ。こんなこと……《 口から漏れる声は弱々しい。 風に乗って、聞いたことのない旋律が流れてくる。この声は、あの少年。 イーリィは目を見張った。視える筈だ、自分なら。どこかに、必ず。視界が揺れる。映像が歪む。セシルと少年を結ぶ何か。それは、 「させない!《 イーリィの身の内から炎が溢れ、セシルを包んだ。 「ああっ《 悲鳴が上がる。少年の、セシルの。どさり、とセシルがその場に倒れた。気を失ったらしい。少年は、未だ立っている。血は止まらない。 どうする、どうする、どうする…… このままじゃ自分は何も出来ない。二人を守れるのは、自分だけだ。 「渡さない、誰が渡すものか《 少年が、イーリィを睨みつけて呻いた。 「やっと、やっと会えたんだ。誰が、誰がお前なんかに渡すか《 呪を唱えているから何も言えないが、それでも、懸命にその瞳を睨み返す。 「やめるんだ《今度は聞いたことのない声だった。近くの資材の裏から出てきたのは、大柄の男。新手の出現に、イーリィは内心焦る。グリューエンがいたとしても、二人を庇いながら戦うのはまだ自分には無理だ。 「煩い! お前は僕の言うことだけを聞いていればいいんだ!《 少年が叫ぶが、男は聞き入れない。少年を、抵抗を受けつつも抱える。 「このまま戦えば、こちらもただではすまない《 「相手はただのガキだ!《 「いや――《 男の視線が自分の後ろに向いたので、イーリィもつられて向くと、 「……兄貴……《 声が潤んだ。こちらに駆けてくるのは、金髪の、一番頼りになる存在。 「……覚えておけ《怨嗟の声が、自分に向く。「姉さんは僕のものなんだ。お前らのものじゃない。絶対に連れ戻しに来る《 立つこともやっとだったらしい少年の声は震えていた。が、それでも、その憎悪は直にイーリィの心を捉えて牙を剥いた。ガルスの到着を待たずに、二つの姿は遠くに消えた。 「大丈夫か?《 着いたガルスは、ユージーンの姿に息を呑んだ。ようやっと血は止まってきたが、その出血量は多い。元々白い肌が、今は血の気もない。セシルも、気を失ったままぴくりとも動かない。 「とにかく、医者に連れて行くぞ《 ユージーンを背負う。セシルは、グリューエンの力を借りてイーリィが運んだ。イーリィの真っ赤な瞳からは、ぼろぼろと涙がこぼれた。 エルフは、少しの出血量でも命に関わることがある。半分エルフの血を引くユージーンにとって、その出血は危険域に入っていた。半分入った妖狼族の血が、かろうじて彼の命をこちら側につなぎとめていた。イーリィがすぐさま施した治癒術も、それを一押しした。 セシルは、操られていた後遺症はあったが、命に別状はなかった。昏睡状態からはすぐに脱し、一晩空けた今は意識も戻っていた。 「大丈夫か? イーリィ《 病院のベッドの上で目を覚ましたイーリィに、ガルスが声をかけた。両目蓋が、腫れているのが自分でも分かる。どうして自分はここにいるのだろうか。ぼんやりとした意識のまま、目を擦りながら起き上がる。かすかに、消毒液の臭いがする。 「――! 先生は?《 一気に昨日の記憶が奔流になって溢れだしてきた。虚ろな瞳の先輩、真っ赤に染まった先生、地獄の淵のような瞳をした少年。 「落ち着く。安心し、ジーンは一命を取り留めて、今は眠ってる《 ガルスが飛び上がらんばかりのイーリィの身体を、ベッドに押し戻した。 あの後、病院に駆け込んだ後、ユージーンはすぐに手術室へと入った。セシルも精密検査を受けた。手術が終わるまでイーリィは廊下で待った。その間、ガルスに状況を説明する。検査の方が先に終わり、セシルが病室に入った。点滴を受ける彼女の腕が白かった。病室から戻ると、まだ手術は続いていた。一旦ガルスが宿屋に連絡を入れに離れる。たった一人、手術室の前の廊下で、古くて固いソファに座っている時、そんな時ほど居心地の悪いものはない。うろうろと歩き回るには、イーリィは疲れきっていた。あまりにも、多くのことが一度に起きすぎて、イーリィの頭はパンクしていた。いや、パンクすることで彼を守っていた。 手術中のランプが消えて、医者や看護士に付き添われて出てきたユージーンの頬に、いくらか赤味が戻っていたことにイーリィは安堵して、そのまま気を失ってしまった。誰がベッドに自分を運んでくれたのだろうか、ぼんやりと考えるが、すぐにガルスだろうと結論付ける。なんとなく、あの広い背中の感触が残っていた。 「セシルも大丈夫。二人とも大丈夫やから。安心し《 ベッドに腰掛けたガルスが、ぽんぽん、とイーリィの背を叩いた。そのリズムに合わせるように、ぼろぼろと、枯れたと思った涙が溢れた。 皆無事、無事、大丈夫。 「よか……た。ほんと、よかった……《 ガルスに抱きついて、大声で泣いた。 「……おはよう、ございます……《 耳に聞こえたその声が頭にいって、その意味を理解するのに、時間がかかった。俯いていた顔を上げると、枕の上の顔が、優しく微笑んでいた。 「ユージーン……《 「はい、セシル《 病室。カーテンは締め切られていて、部屋の照明も今は落ちている。 「……すまない《絞り出すように、セシルが言った。膝の上の手が、ぎゅ、と握られる。その甲に、涙の一粒が落ちた。「すまない《どうしてこんな言葉しか出てこないのか。上甲斐ない。 「どうして? どうして貴女が謝るんです?《 声はまだ掠れていたが、しっかりとしていた。 「どうしてって、私が……私が……《認めたくなかった。認めたくないのだが、それは事実であり、この手がその感触を覚えている。「私が、刺したんだ《 「違う《しっかりと、ユージーンはそれを否定した。「貴女はその時意識を失っていた。貴女の意思で僕を刺したわけではないでしょう《 「しかし《 「でも、そうです。貴女の意思で行ったわけではない《 「だとしても。だとしても、私が刺したことに変わりはない。意識を失っていたとしても。それに、それに、ユージーンが庇ってくれていなければ、私はイーリィを刺していたんだ《 想像するだけで、恐ろしい。 「でも、大丈夫だった《 「死にかけたんだぞ。大丈夫なんかじゃない《 「大丈夫なんですよ。誰も死んでない《 「だとしても。私は……《 ぎ、とベッドが軋んだ。セシルが顔を上げると、上半身を起こそうとするユージーンが目に入った。 「ユージーン!《慌てて支えようとするセシル。 「ありがとうございます《 「無茶する――!《 いきなり腕を引かれて、セシルは姿勢を崩す。どこにそんな力があるのかと、信じられない力強さだった。そのまま引かれるままに、倒れこむ。 「な、なにを《抱きしめられる形になって、セシルは耳まで真っ赤になる。 「ほら、動いているでしょう、僕の心臓は《 すごく近くから、低い声がする。 相手の胸に押し付けられた耳から、規則的に脈打つ心臓の鼓動が聞こえた。それは力強く、生命をつないでいることを主張している。 「だから、大丈夫なんです。貴女が何もかも背負わなくてもいいんです。僕達がいるんですから《 頭を撫でられて、セシルはまた涙が溢れた。さっきとは違う、熱い涙だ。 「ふ……う……《 最初は堪えていたが、堪らなくなって、結局、セシルは大声で泣いた。そんな彼女を、ずっとユージーンは抱きしめ、その頭を優しく撫でていた。 朝、それを一番最初に見つけたのは看護士だった。朝の検診で病室に来た彼女は、空っぽのベッドを見つけた。点滴の管が垂れていて、窓が開いてカーテンが揺れていた。ベッドは意外と綺麗に片付いていた。 ベッド脇の側卓に、メモが置かれていた。 「ありがとう。さようなら《 この部屋に入院していた少女の姿は、どこにもなかった。 |