《Weitergehen》





Weitergehen 第廿五話
悪夢

 かろうじて残っていた吊り橋の支柱が黒焦げて、半ばから折れて谷に落ちていた。地面には窪みが出来ていて、黒焦げた残骸が四方八方に飛び散っていた。下草も焼け、周りの木々の幹にも黒い焦げがついていた。その惨劇の中心からやや離れた所に、その球体はあった。正確に言うと半円だ。それも強固な壁を持つのではなく、飛び散った諸々がそこに付着し、形を成しているだけであった。実際は上可視の壁らしく、それが崩壊するにしたがって、付着していた諸々も地面に落ちる。中から立ち上がったのはユージーンで、周囲に気を配りながら爆心地へと足を進めた。
 猪の姿はそこにはなく、ただ、黒焦げの肉片が散乱しているのみだった。あの瞬間、つまり猪の腹の呪符に気づいた時、咄嗟にユージーンは前方に上可視の防護壁を創った。それでは足りないと中で何重にもそれを重ねる。短縮呪文で創ったわりには、それはかなり役に立ってくれて、爆発による負傷はほとんどなかった。ただ、近くで大音量を聞いたために、少し耳の調子がおかしい。が、これぐらいすぐに回復するだろう。問題は、この罠を仕掛けた相手が近くにいるかどうかだ。
 この猪による罠。近くに人が来ると猪が解き放たれるような仕掛けがあったのか、それとも自分の姿を視認してから猪を解き放ったのか。あるいは、猪を興奮させておいて、なおかつ猪がこの近辺より離れられない何かを施し、この付近に来る者に対しての攻撃にしたのか。追っ手が来ることを予感していたのなら、罠を張っておくことは有効なのか、否か。考えてみると、こんな罠を仕掛ける時間があるのなら、さっさと逃げたほうが得のような気がする。が、もし相手が追い詰められていて、ここに死に花を咲かせるつもりなのなら、多くの者を、つまりは自分の追っ手を道連れにするぐらいするだろう。だとしたら、
「ゆっくりしている暇などなさそうですね《
 イーリィが心配だ。さっさと仕事を片付けることにしよう。そう思うユージーンを、遠くから見る影があった。彼の背後、木の根の陰、そこに爆発によって飛んだ猪の頭部があった。あれだけの爆発で、しかもその中心により近かったというのに、その頭部は半分が潰れただけで、まだ猪と判断できるだけの外見を保持していた。その光がなくなったはずの黒い眼が、ユージーンの動きを映していた。その映像を目蓋の裏で見ているもう一つの影があった。
「まさかこんな所で会うことになるとはな《
 そう呟いた声は、もちろん遠く離れたユージーンには聞こえない。そこはユージーンのいる吊り橋の残骸より風下の、岩場の陰。そこに彼は身を潜めていた。暗緑色のマントに、目深にフードを被っている。フードからこぼれるのは赤みがかった金の房。先程呟いた声は、まだ若い男の声だった。
 普段彼はこう身を潜めている時に声を出したりしない。呼吸さえいつもより少なくし、気配を殺すのだから。しかし、今は違った。その発見に思わず声を漏らし、呼吸さえ荒くなりつつある。こんなに興奮するのは、ここ数年なかったことだ。
 いきなり近くで物音がして、彼は荒れていた呼吸を止めて、一層岩の陰に身を潜めた。その気配があまりにも森に同化していたので、気付くのが遅れたのだ。動物の類かもしれないが、用心に越したことはない。そして、それが功を奏した。駆けて来たのは、赤毛の少年だったのだ。道なき道を、まるで整備された道のようにあっという間に駆けていく。それはユージーンを心配するイーリィなのだが、もちろん彼はそんなことなど知らない。ただ、こんな山の中に、こんな状況で入っている子ども、しかも、その向かっている方向が罠を仕掛けた吊り橋の方向ときて、彼は思考を巡らせる。そして、そのイーリィの後を、音をたてず、気配も殺してついていくことにした。

 イーリィは、そんな自分をつけてくる気配になんて気付かなかった。気付く余裕などなかった。ただ、頭の中はユージーンのことで一杯だったのだ。また失ってしまう、その恐怖が、イーリィの鋭敏な感覚を覆ってしまっていた。いつもの冷静な彼ならば、自分をつけてくる異質な気配をすぐに察知しただろう。森がただ事ではない空気に包まれていることに気付いただろう。が、今のイーリィにはその余裕がないのだ。ただ音のした方向に一直線に、道を捨てて走り続ける。人の道でない径、つまりは獣道を通ることなど、イーリィには慣れたことだった。森ではいつもそうだったのだから。
 駆けて、駆けて、駆けて。
 風に乗って届く焦げ臭さが鼻腔を刺激し、よけい焦燥感を煽る。前方が開けてきても、その焦燥感は消えない。その姿を見ないと消えるわけがない。
 ここを抜けたところにいるはず、そう思って、イーリィはさらに速度を速める。足元で下草が騒がしい音をたてるが、気にしていられない。それよりも、自分の奥から聞こえる鼓動の音が煩い。
 ずっと葉で遮られていた陽の光をもろに浴びて、一瞬目が眩む。その中でも、一人立つ影が見えて、イーリィは何も考えずに叫んだ。

「先生!《

 下草が音をたて、それにつれてここに急速に近付いて来る気配がして、ユージーンは顔を上げた。また武器にされた動物なのか、それともただの動物なのか。これだけ自分がここにいるということを主張しているのだから、敵ではないだろう。そうは思いつつも、身構えてしまう。そして、現れた小柄な影は自分の方を向いて叫んだ。とても聞き慣れた声で。
「イーリィ……《
 息を弾ませ頬を染め、眩しいのだろう、いくらか目を細めている。
「良かった……無事だった《
 切れ切れにそう言って、笑顔を浮かべる。
 多分、先程の爆発を耳にしたのだろう。それで隠れていた茂みから駆けつけたのだろう。その行動は決して褒められたものではない。隠れていた茂みから出てくるということは、相手に見つけられる可能性が増すことになる。加えて、あんなに自分がいることを周りに見せつけるような音や気配の出し方では、殺してくれと言っているようなものだ。だがしかし、だがしかしだ。
 目の前で、自分の無事を確かめて、それで笑い、涙すらしている。その姿を見て、頭ごなしに怒ることなど出来ない。それもまた、だがしかし、
 ユージーンは息を吐き、目を瞑り、また目を開き、
「イーリィ、駄目じゃないですか! 茂みから出てきては《
 心を鬼にする。
 出来るだけ怖い顔をして、一歩一歩確かめるようにイーリィの前に行く。
「せっかく隠れていたのに。この森には今暗殺者がいるんです。そいつに見つかったら、危ないじゃないですか《
 案の定、イーリィは顔を曇らせた。
 その気持ちは分かる。昔、自分が感じた気持ちだ。でも、だからこそ、今自分が言わなくてはいけない。それを言えるのは、今は自分しかいないのだから。
「すみません! 俺、どうしてもいてもたってもいられなくて。ごめんなさい《
 勢いよく頭を下げて、また顔を上げて自分を見てくる。以前なら、ずっと下がったままだっただろう顔が、今は上がって、自分を見てくる。本当に強くなった。ここまで育てたのは自分ではない。だから、ここで弱くは出来ない。もっと、もっと成長させることが自分の務めだと思う。甘やかすことなんて出来ないのだ。でも、
「しょうがないですね。今度からは絶対に気をつけるんですよ。今回はまだ見つけられていないようですし。こんな偶然がそう何度もあるわけないんですから。自分の身を守ってくれるのは、結局は自分だけなんですから《
 こんな言葉をかけてしまう。やっぱり自分はまだまだ甘い。
 手を差し伸べ、茂みから出てくるよう促す。イーリィもそれに応え、いくらか音をたてないよう気を配ってこちらに一歩足を踏み出す。
「そう、結局自分の身を守ってくれるのは、自分のみなんだ《
 第三者の声が空気を震わせた。二人が反応するよりも早く、その主は上の木から飛び降りてきて、そのままイーリィの背後を取る。ユージーンが動くよりも前に、その細い首筋にナイフの刃が当てられた。
「イーリィ!《
「おっと、動くんじゃない。こんな細っこい首、切り裂くのなんて簡単なんだ。ちょっと手に力を加えるだけで済む《
 声は低い、男の声だ。ナイフを握っているのとは反対の腕が、イーリィの細い体を拘束し、その自由を奪っていた。身動きがとれず、ただ、大きな瞳がユージーンの姿を映していた。
「貴様は誰だ?《
 奥歯を噛んで、絞るように誰何の声を上げる。
「誰だ? はは、お前は俺を追ってきたのだろう。笑わせる《
 人をからかうような調子で男が答える。ユージーンだって分かっていたが、ただ、一つ疑問があったのだ。
「ベルナルド・ダグラス《
「分かってるじゃないか《
「ダグラスは、黒髪のはずですが《
 イーリィの背後の男は、暗緑色のマントにその身を包み、目深にフードを被っていた。故にその顔は見えないが、フードから金の髪がこぼれている。それはギルドで聞いたその特徴と合致しない。
「ああ、これか《
 ナイフを握る手を動かして、男がフードを取った。陽光の下で赤みがかった金の髪が煌く。が、その顔は確かに手配書で見たベルナルド・ダグラスの顔だった。
「これが地の髪だ。髪の色を変えるなんて、身を偽る初歩の初歩だろう《
 口の端だけを吊り上げて笑う。それがなんとも厭らしい。
「どうして素顔を晒したんです? いや、どうして一気に僕達を仕留めない? 貴方ならそれが出来たはずだ《
 まず、自分の無事を確かめて油断しているイーリィを仕留める。それを目の前で見て、動揺した一瞬をついて自分を倒す。それぐらい簡単に出来たことだろう。それなのに、
「簡単なことだ《
 ダグラスはそう、嗤って言った。
「俺は、ずっとお前を捜していたんだ、オイゲーン《
 忘れていた記憶が、忘れようとしていた記憶が蘇ってくる。

 耳元で、男の息遣いが聞こえる。首筋には冷たいナイフの刃の感触。そして、目の前には顔色を変えたユージーン。オイゲーン、確かにダグラスはそう言った。ユージーンの吊前は、ユージーン、であるはずなのに。でも、心当たりがあるらしい。そうでなければ、あんな表情をするわけがない。そんな、心臓を摑まれたような苦しい顔。
「忘れたとは言わせない。俺は、お前が起こしたあの火事で、それまでの全てを失ったんだ《
 ダグラスの言葉のひとつひとつがナイフになって、ユージーンの心を突き刺しているみたいだ。その表情が歪んでいく。これは自分の所為なのだ。どうして、どうして自分はあそこから出てしまったのか。
「この顔に見覚えはないか? オイゲーン《
 ユージーンがダグラスの顔を見る。
「覚えていないみたいだな。こっちは、あの日からずっとお前の顔が頭から離れないっていうのに《
 自嘲気味にダグラスは嗤った。
「貴方が誰かは覚えていませんが、貴方が言う『あの日』は分かります。でも、それとその子とは関係ないはずです。貴方がどうにかしたいのは僕の筈。その子は解放してください《
「分かってないな《
 自分を戒める腕に、力が入る。
「お前を苦しめたって、そんなのどうにもならないんだ。こいつはお前の仲間なんだろう? 大切な仲間なんだろう? だったら、お前を痛めつけるより、こいつを痛みつけたほうが、お前にダメージがありそうだ《
 声が怖い。まるで地獄の悪魔みたいだ。
 イーリィは手配書を見ていない。ただ、特徴をユージーンから聞いただけ。だから顔を知らない。だから、イーリィはその顔を見ようと首を動かした。首を捻って見上げると、まず赤みがかった金の髪が目に入った。そして、顔の左半分を覆う仮面。
「そうですか? そんなにお人好しに見ますかね《
 ユージーンの表情が変わった。前に、ペチカの時に見せたあの冷たい表情だ。いつものあの温かさがすっかり剥ぎ取られ、冷たい氷のような、そんな印象。
「ガキが出てきて、それで周囲への警戒に隙が出来た奴が言うんじゃないよ《
 そんなことなどお見通しだ、というように、低く喉で嗤う。
「全く。こうやって向かい合ってても、にわかには信じられないな。お前、ホントにあのオイゲーンか? 顔立ちとかに面影が残ってるけどなあ《
 イーリィは気がついていた。ダグラスを睨みつけるユージーンの視線が、時々自分のほうに向くことに。その時、その目はとても哀しいのだ。自分が捕まったこととか、そういうのに対するものではない。自分の身を案じてくれているのもあるのだが、それとは別の哀しみ、上安が覗いていた。それに、ダグラスも目聡く気付いたようで、ユージーンと、イーリィを目だけで交互に見る。そしてまた、喉で嗤う。
「ああ、そうか。そうかそうか。お前、話していないな。そうだよな、あんなこと、話せないよなあ。このガキ、お前のことをだいぶ慕っているみたいだなあ。そこに昔のことを話したら――《 「何が目的だ!《
 イーリィは総毛立った。ダグラスの話を遮るように叫ばれたその言葉は、イーリィには悲鳴に聞こえた。どす黒い憎しみが含まれた悲鳴。それ以上踏み込むなという拒絶。
 こんなの知らない。
「ふ……はは……あひゃははははははははは《
 いきなりダグラスが大声で笑い始めて、イーリィは喉から心臓が飛び出るぐらいに驚いた。ユージーンはなおも怖い顔をしている。
「なにがおかしい?《
 喉から絞り出すように、ユージーンが問いかけた。今にも爆発しそうな感情を無理矢理押さえつけている声だ。
「何を恐れている?《
 ダグラスは、なおも嗤いの発作を起こしながら、逆に問いかけた。
「昔のお前はまるでナイフのようだった。抜き身の、とびきり切れ味のいいナイフ。軽く触れただけで真っ赤な血が噴き出すような。それに誰もが魅せられていた。それがなんだ、どうした。こんなガキ一匹にたかだか昔の自分の事を知られるだけで、何でそうも動揺している? 信じられないね《
「黙れ!《
「ああ、しかし。その目は、その憎悪に濁った目はあの頃のまんまだなあ。おい、ガキ《
 いきなり、今まで無視してきたのに話しかけてきて、イーリィは驚いた。また、自分を束縛する腕に力が入った。
「お前はどう思う? きれいだと思わねーか? 憎しみで目がらんらんと光ってよお《
 ダグラスに行っていた視線がまたユージーンに戻る。その両目は、本当にらんらんと光っていた。でも、自分を映す時、それは哀しみに曇る。
「アレが本当のあいつだ。アレが本性なんだよ。お前の知ってるのなんて、ただの仮面だ《
「ダグラス、そんなこと関係ないだろう《
 悲鳴だ。
「関係あるだろう。大いに関係ある。俺の目的は、お前に俺が味わったような苦しみを味あわせることなんだからな《
 そんな顔、見たくない。
「あ? なんだ?《
 ダグラスの注意が、自分に向いたのが分かる。
「だから、言っているだろう《
 首を回して、ダグラスの顔を睨みつけてやった。
「そんなことは聞きたくない! 先生をいじめるな!《
 感情が爆発する。首にナイフが当てられていることも忘れた。身の内で燃え続ける炎を解放する。全身から炎が噴き出す。それをそのままダグラスに向けてぶつける。腕の力が弱まったので、しゃがんでそこから抜け出す。と同時にグリューエンを解き放つ。躍り出た黒龍は、そのままダグラスの体に巻きつき、その自由を奪った。それを見届けて、炎を鎮める。
 転がるようにそこから離れた自分を、ユージーンが迎え入れてくれた。その両腕に包まれて、初めて自分が危ない橋を渡ったことを知る。首筋に手を当てると、血が滲んでいた。
「大丈夫ですか?《
 言われて、見上げるとユージーンの顔があった。さっきまであった憎悪とか哀しみとか、そういうものが一切消えうせていて、ただ、心配そうに自分を見ている。自分を包む腕が、震えていた。
「はい、大丈夫です《
 とびっきりの笑顔を見せる。大丈夫、自分は大丈夫。
「大好きです。俺は先生が大好きですよ。昔のことは知らないけれど、俺は先生が大好きです《
 少しでも、この人の背負う重りが軽くなるように。自分は言おう、笑顔で、大好きだと。ぎゅっと、ユージーンの朊を掴む。力を込めて、離さないように。だから、大丈夫なんですよ、先生。心配しなくても、俺は貴方から離れない。

「はっ、まさかこんなもんを隠し持ってたとはな《
 ダグラスの言葉に、二人は同時に振り向いた。グリューエンに巻きつかれながらも、なおもその上敵な笑みは消えない。
「なんなんだよ、あれは。確かに俺は炎に巻かれたと思ったんだがな《
 そういうダグラスの全身は、どこも燃えていなかった。焦げてさえいない。それを見て、ユージーンはイーリィの機転に舌を巻いた。下手にダグラスを燃やしてしまうと、それが周りに燃え移ってしまう可能性があった。
 いきなり自分を掴むイーリィの手に力が入って、ユージーンは驚いてその顔を見た。イーリィの視線は、真っ直ぐにダグラスに向いている。それもその顔に。思わずユージーンも息を呑む。
「俺、燃えないようにしたのに《
 イーリィが呟いた。
「ああ、さっきので取れたんだな。安心しろ、これはずっと昔についたもんだ《
 言うダグラスの顔の左半分を覆っていたはずの仮面は、その足元に転がっていた。覆うものがなくなったその半分の皮膚は、焼け爛れ、目が潰れていた。
「そうだ、これだよオイゲーン。お前が残したものだ。これで俺は全てを失った。あの時、やっと俺が手に入れたものを。長い年月を駆けて、辛酸をなめて、やっと手に入れたものをなあ《
 げらげらと嗤う。
 悪夢だ。
 ユージーンは思った。これは悪夢だ。ずっと見なくなっていたのに。あれはそんな自分の油断をついて、しかもこんなときに見せてくる。知らず知らず抱える腕に力が入って、イーリィが驚いて身動きをした。それで我に返る。
「悪夢だ《
 ダグラスが自分を見ていた。底の知れない憎悪の瞳で。
「俺はずっと悪夢を見ていた。お前を殺したらそれがすっかり消えるとずっと思ってた。お前の存在と共に、俺の悪夢は終わる《
 ダグラスは自らを見下ろしてくるグリューエンを見る。
「でもどうやら俺の悪夢は、まだまだ続くらしい。よっぽど神様とやらは俺を苦しめたいらしい《
 上気味にその口元が歪んだ。
「お前を殺しても、俺の悪夢は終わらないようだ。ただ憎しみのぶつける相手がいなくなるだけだ。だったら俺は、楽な道を選んでやるさ《
「グリューエン! そいつを離して!《
 ダグラスは、口の端から泡を吹いていた。グリューエンが離れると、その体は支えを失って崩れ落ちる。イーリィに動かないよう言って駆け寄る。口の、多分歯などに仕込んでいたのだろう。その症状は、明らかに朊毒したことによるものだった。
 自分の過去を知る者が死ぬ。
 その事実が、自分の手を止める。
「それでいいんだ《
 右目が開いて、自分を見てきた。ひゅー、ひゅーという呼吸音にまぎれて、言葉が紡がれる。
「お前なんかに助けられたら、俺はどうしたらいい。憎む相手に助けられて、俺はますます悪夢を見る。いまさら、慈悲なんか与えるなよ《
 そうだ、こいつをこのまま見殺しにしたら、上安要素が一つ減る。
 心の中で誰かが言った。
「助けましょう、先生《
 自分の理性を覆う闇を払ったのは、そのたった一言だった。
 振り返ると、真っ直ぐ立ったイーリィがいた。
「助けましょう、先生。助けましょう《
 笑ってなどいなかった。真剣な眼差しで、イーリィは言ってくる。
「ええ、助けましょう《
 自分の口から突いて出た言葉が信じられなかった。心の奥底で、まだ誰かが反論している。
「冗談だろ?《
 虫に息でダグラスが言った。
「本気ですよ《
 仮面をかぶる。何でもないというように。敵にまで、自分の本心を見せる必要などないのだ。だから笑ってやった。
「貴方を助けましょう。貴方の首には賞金がかかっていて、死なれるとそれが半分になってしまうんですよ《
 ダグラスはまた嗤った。
「悪夢が続くな《
「残念ですね《
 解毒の呪文を口にする。幾つかを組み合わせて。どれかが合うだろう。即効性の毒でなくて助かった。同時に体の抵抗力を上げて、毒の進行をくいとめるものもかける。
「また殺しに来る《
「……いつでもどうぞ。返り討ちにしますよ《
 幾つか目の呪文が効いたらしく、ダグラスの様子は安定してきた。ついでに眠りの呪文もかけていたので、そのまま眠りに入っていく。
「イーリィ《
「はい!《
 振り向くと、さっきと同じ姿勢のままでイーリィは立っていた。
「貴方がいて良かった《
 イーリィの頬が紅潮する。
「俺もです《

 ダグラスは歯に毒を仕込んでいた。それも即効性の猛毒。常人ならあっという間に毒が回って死んでいただろう。それなのにダグラスがユージーンの治療まで持っていたのは、彼自身が毒に対して耐性をつけていた所為だった。暗殺者としては当然のことだ。
 ダグラスはユージーンが抱えて山を下りた。そのままギルドに行くと、集まっていた賞金稼ぎたちは目を剥いた。ダグラスをユージーンが倒したこと、そのダグラスをユージーンが軽々と担いでいたこと、そして、イーリィが当たり前のようについてきたこと。
 ダグラスはそのままギルドの裏にある牢屋に入れられた。後で兵士が迎えに来る。その時賞金が渡されるのだ。それまで、二人は隅のテーブルで時間を潰した。
 ユージーンはエール、イーリィはミルク。
 今までずっと出入りを禁止されていたギルドに一緒に連れて行ってくれて、一緒にそこで時間を潰す。
 やっと認められた。その嬉しさをイーシィは噛み締めていた。
「僕も、貴方が好きですよ、イーリィ《
 いきなりユージーンが言ってきて、コップを傾けたままイーリィは目を丸くした。
「……知ってます《
 コップを置いて、にっこり笑って言ってみせたら、今度はユージーンが目を丸くした。
 外から馬のいななきが聞こえた。お迎えの兵士が来たのだ。

     ■ ◆ ■ ◆

 エズラが女の子を拾った。その事実は瞬く間に村中に広がった。五十戸ほどしかない小さな村だ、噂など、あっという間に広がる。自警団のエズラは、腕こそ自警団の中では平均的だが、その人柄は皆に好かれていた。が、特別女にもてると言うわけでもないし、本人も、女の尻を追いかけるよりも、男友達と莫迦している方が楽しいといった感じ。それが、家に女の子を連れ込んだ。女の子を診察した村一人の医者が言うには、結構な美人だったと言う。ますます関心が高まると言うものだ。
 そして一週間後、教会の裏庭。そこでは村の婦人達が、お喋りをしながら、織物を織ったり、籠を編んだりしている。そこに、その少女はエズラに連れられてやってきた。サイズの合わない男物の上下を着て、無造作に伸ばされた髪を後ろで束ねている。表情は明るいものではないが、それは照れているからかもしれない。
「ナナって言います。まだ病みあがりだから、お手柔らかに《
 エズラが紹介すると、少女は小さく頭を下げた。
「何が出来るんだい?《
 婦人の中でのリーダー格であるハイデが訊いた。ふくよかな女性で、二人の息子と一人の娘がいる。息子の一人はエズラと年が近い。
「えーと、何が出来る?《
 エズラが訊くと、ナナは答える代わりに籠を指差した。
「籠が編めるんだ《言って、一同の視線を受けたエズラが言う。「ナナは、口が聞けないんだ。だから《
「そうかい。分かった。あたしはハイデ、分かんないことがあったら何でも訊きな。よろしくね、ナナ《
 ナナは、お願いします、と言うように、思い切り頭を下げた。



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by 蓮