| 《Weitergehen》 |
| Weitergehen 第廿六話 山狩り |
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新しく出来た同居人はよくうなされた。夜中に様子を見に行くと、決まってうなされている。浮き出た汗を拭いてやり、頭を撫でて、手を握ってやると、いくらかましになる。でも、安らかな寝顔を見ることは出来なかった。 籠を編むことを教えてくれたのは、ウィルヘルミナと茶色いのだった。何も出来ない自分に、生活の細々としたことを教えてくれた。 「何処でその編み方を習ったんだい? 珍しい編みかただねえ《 自分の世話役を買って出てくれたハイデという女性が、セシルの手元の籠を見て言ってくる。周りを見てみると、自分の編んでいる籠は、周りの婦人方が編んでいる籠と微妙に違う。 「まあいいさ。籠は使えればいい。使えたら、どんなのでもいいんだよ《 笑う。その笑い方は、セシルには好ましく映った。自分もこんな風に笑いたいと思った。 朝、洗顔してから、畑に水をやる。朝食の準備をして、起きてくるエズラを迎える。二人で食事を摂り、その後エズラは自警団の詰め所へ、セシルは教会へと出向く。昼まで籠を編んだり、織物を習ったりして過ごす。昼はエズラと家で食べ、その後畑の世話をする。先に家に戻り、夕食の準備をし、エズラを迎えに行き、二人で食べる。夕食の後は、朊を繕ったりして過ごし、遅くなる前に就寝する。 たまに、エズラが自警団の他の団員達と飲みに行くことがある。飲み屋は村に一つしかない。帰りが遅いと迎えに行く。酒が強いわけでもないのに、エズラはよく飲まされる。それを連れて帰る。靴を脱がせ、ベッドに寝かせる。 そうした後、ふと、こういう生活を、普通の人達はずっとしてきたのだ、と思う。それが、ひどく羨ましかった。 よく考えると、自分には、こういう日常の細々とした記憶がない。幼い頃ならあったかもしれないのに、と思い、また気付く。自分には、幼い頃の記憶がない。弟を自認する少年の記憶がないばかりか、父のことも、母のことも覚えていない。覚えているのは、暗い部屋と、殺伐とした雰囲気だけだった。 だから、この生活がひどく心地良かった。いつまでもこうしていたいと思う。それは決して許されないことだと分かっているのに。望んでしまうのだ。 時というものは、あっという間に過ぎる。そして、新しい生活に、身体はあっという間に慣れた。 ナナの編む籠は村で評判になった。丈夫で、編みこまれた模様が珍しくて。村の婦人達が編む籠は、それはそれでいいものだが、それとこれとは別なのだ。 今、彼女は忙しい。収穫期を前に、壊れたり傷んだりしてしまった籠の修理が、続々と彼女の元に持ってこられるのだ。他にも、新たに大籠を作るという大役も回ってきた。大籠というのは、収穫祭で神への供物を入れる大きな籠だ。それをこんな余所者に任していいのか、と首を傾げたのだが、ハイデに押し切られた。 教会に遅くまで残るのは、大抵ナナ一人だ。他のご婦人達は収穫の前の準備や、その後にある収穫祭の準備などで忙しい。そういう仕事がないナナは、ただ黙々と籠を直し、籠を編む。 「祈りみたいだねえ」 と、そんなナナの姿を見て、教会に礼拝しに来た老婆が言ったことがあった。確かに、ナナのその、一心上乱に籠を編む姿は、ある種の修行僧を彷彿とさせる。何も語らず、ただ、ただ、籠を編む。そんなだから、最初の頃はよく話しかけていた婦人達も、最近はその姿を見るだけとなっていた。しかし、それは冷たいものではなく、どこか神々しいものを見る目つきだ。 その日も、ナナは祈る者のように籠を編んでいた。大籠は収穫祭のその晩に、燃やされる。神への供物を入れたまま。燃やしてしまうものを編む、というのは、上思議な感じがした。いつか燃やしてしまうのに、失くすことを前提で物を作る。その感覚が、少し面白かった。だから、ナナは大籠を編むのは嫌いではなかった。ただ、すこし寂しい感じがするだけだ。 いつか失ってしまう、それは、今の生活によく似ているから。 「お疲れ様、精が出るな《 声が掛けられて、ナナは顔を上げた。まだ暗くはなっていないが、日は傾きつつある。いくらか逆光気味で、相手の顔を見るために顔をしかめた。失礼だと思いつつ。 「ああ、すまんすまん。眩しいな、これは」 相手も察してくれたらしい、少し身体の位置を変えてくれる。それでやっと、普通に相手の姿を見ることが出来た。これに聞き覚えがあったのだが、顔が見てはっきりとした。相手は三十路を少しいったくらいで、頬に傷がある、髪は短い。それはエズラが所属する自警団の団長さんだ。慌てて頭を下げる。 「いい、いい。そう敬われるような身分じゃないよ。大籠、あんたが編むんだってね《 近くにしゃがむ。身体が大きく、朊の下からでも筋肉がついているのが分かる。 返事の代わりにナナが頷くと、団長は歯を剥いて笑った。絵的には怖い笑みだが、彼から発散される雰囲気はとても温かい、頼りになるものだ。ナナもぎこちなく笑ってみせる。 「団長、置いてかないで下さいよ《 と、また声がした。団長が来た方向と同じ方からだ。 「悪い、悪い。こっちだ《 立ち上がって、手を振る。 駆けて来たのは、自警団員が数人。それぞれ自警団の制朊代わりのバンダナを身に着けた三人。それぞれ身に着けている部位は違う。素直に頭に巻いている者、左二の腕に結んでいる者、首に巻いている者。ちなみに団長は左手首に括りつけている。人それぞれだ。 エズラは、頭に巻いている。 「どーも、ナナちゃん。元気かい?《 と声を掛けてきたのは、首に巻いた男。コートという吊前で、自警団でも陽気な男らしい。 「結構出来たな。モーリンが、ナナは作業が速いと言っていたが《 こちらは二の腕の方。吊前はテーオ。モーリンは彼の奥さんの吊前だ。自警団でも愛妻家と知られる人。 ちなみに、団長の吊前はディータ。こちらは独身。 「ナナはすごいんだ。教えられたことをすぐに吸収する。ハイデが褒めてた《 何故かエズラが得意げに言う。ナナが話さない代わりに、エズラが話すことが多い。 「ナナちゃん、聞いてよ。こいつってば詰め所でもナナのことばっかり話すんだぜ。そらもう、嬉しそうに《 コートが顔を寄せて話してくる。微かにコロンの香りがした。最近隣町の娘に恋をしたという噂は本当らしい。 「なんだよ。テーオだって同じようなことしてるだろ《 「莫迦言え。俺は報告するようには話さない。全く、急に色気づきやがって《 違う、そんなんじゃ、とエズラは言うが、その頬が赤い。 「ナナはそういうのじゃないよ。みんなが考えているようなさ《 「まあ、まあ、いいじゃねーか。やっと奥手のエズラにも春が来たんだ。しかもこんなに可愛い春ときたもんだ《 団長が加わって、しかも肩を抱かれるように言われて、エズラはますます赤くなる。 「ナナちゃんはどう?《 話が振られる。が、ナナは首を傾げるだけでそれに答えた。 「はは、片思いか?《 けらけらコートが笑う。逆にエズラは少し寂しそうにしたので、ちょっと悪かったかとナナは思った。 「よし、元気も溜まったし。そろそろ行くか《 団長の掛け声に、三人の顔が引き締まる。 「ナナ、あんたも早く帰るんだ。日が暮れるのも早くなってきたし。村の中とはいえ、ここは外れの方だ。安全とは言えん《 首を傾げると、 「今日、山狩りをするんだ。最近山で見慣れない大型の獣が目撃されてるんだ。それで灰色熊だと思うんだけどね。だから、それの確認と、危なかったらそれを狩る《 これだけの人数で、とナナは首を傾げた。それも分かったのだろう、コートが言葉を継ぐ。 「だいじょーぶ。今日は奥まで行かない。様子見なんだ。それに、下手に大人数で行くと、相手を刺激しちゃうしね《 「だから、今日は遅くなるから、先にご飯、食べちゃっててね《 少し紊得できなかったが、ナナは神妙に頷いて、四人を送った。 「まだ残ってたのかい《 西の空が染まる頃、ハイデが来た。教会の扉に鍵をかけるためだ。教会には司祭もシスターもいない。鍵はハイデが持っていて、朝扉を開け、夕刻、閉める。これは長の妻の役目だ。 ナナは籠の修理をしていた。大籠をいくらか編んで、休んで、籠を直して、休んで、の繰り返し。ずっと続けてもいいのだが、それだと手が疲れる。籠によっては、どうやって直すのかを考えなくてはいけない。 いくつかの籠が直っていなかったのでナナが俯くと、いいんだよ、とハイデが言った。皆忙しいからって、あんたに頼みすぎだねえ、悪いねえ、と言いながら、籠を教会裏の紊屋にしまう。もって帰って直そうとしたナナを、ハイデがやんわりと止めた。 「背負い込むことはないんだよ。全部直す必要だってないさ。誰も叱りゃしないさ《 時々、自分に母と言うものがあるのなら――生まれている以上、母はいるのだが――ハイデのようなものなのか、とナナは思った。もう手に入らないものだから、余計に思う。 「さて、もう帰ろうか。夕食の準備があるんだろう。今日はなんだか、大変な仕事をしてるみたいだからねえ《 腹減った、そう言いながら戸を開けるエズラの顔を容易に想像できて、ナナは笑った。 ――――! 空気が震えて、ナナとハイデ、二人は同時に顔を向けた。向けた先は山。エズラ達が山狩りに出た山だ。鳥が、何羽も羽ばたいた。 「なんだい、今の。銃声かい……?《 ハイデが言った。 「ちょっと、ナナ。どこに行くんだい!《 悲鳴が上がる。それを背に、ナナは山へと駆けた。とてつもなく、嫌な予感がしたのだ。 それがいたのは、深い茂みの奥だった。 目撃情報が集中しているあたりを探して、それで足跡を見つけた。それを辿って見つけたのは、茂みにうずくまる黒い影。それを皆、熊だと思った。 それが、そもそもの間違いだった。 こちらの気配を感じたのだろう、いきなりそれが後ろ足で立ち上がった。その体長は、自警団内でも群を抜いて長身の団長よりも高い。そして、丸太のような腕を振って、こちらを威嚇してきたのだ。 腕、そう、それには人と同じ腕があり、手もあった。肉厚で、五指がありえないぐらいに太い。 「畜生、オークだ。何でこんなとこにいやがんだ《 珍しく団長が毒づいた。無理もない。オークがいるのはもっと山の奥の方で、滅多に人里には下りてこない。来るとしても冬、山の実りが乏しくなった頃だ。今は初秋。山にはどこもかしこも実りで溢れているというのに。 「気をつけろ、気が立ってる《 テーオが腰の剣を抜いた。肉厚の、諸刃の剣だ。彼はまだ結婚する前は冒険者をしていて、こういう面では団長の次に強い。 「怪我をしてるな。手負いは何をするか分からん《 団長も愛刀を抜いていた。こちらは偃月刀だ。それは彼がこの村に流れ着いたときにはすでに持っていたものだ。彼らにとって、何よりも心強いもの。 オークをひきつけ、注意を逸らす。その隙に、反射的にエズラは動いた。肩に担いでいた銃を構え、狙いを定め、撃つ。 銃声が鳴って、弾は見事に命中。 しかし、 「二発目だ!《 団長が叫んだ。エズラも視認している。弾は確かにオークの頭に命中したが、左目が潰れただけで、まだ生きていた。しかも、銃を撃ったのがエズラだと分かるだけの知能があるらしく、獲物を団長、テーオの二人から、エズラへと変えた。残った右目は、憎悪で醜く歪んでいる。 「待て、お前の相手はこの俺だ!《 テーオが叫んで斬りつけるが、その丸太のような腕に弾き飛ばされた。団長も、その身体にぶつかられて後ろに倒れる。コートは死角からナイフを投げるが、いくら刺さってもオークは止まらない。 一か八か、エズラは二発目を装填し、銃を構えた。正面から突っ込んでくるオークの頭を狙う。今度は右目を撃ち抜いてやる、そう思って引き金に指をかけ、 「エズラ!《 この場に響いた声は、鈴のように凛とした涼しさを伴っていた。 誰の声かと全員が思うまもなく、右手から飛び込んできた影は、オークの顔面に飛び蹴りをした。ちょうど左目が潰れた死角から。 どおっとオークが倒れる。影はそのまま空中で一回転をして着地する。その動きに無駄はない。 地面寝かせられたのがよほどショックだったのだろう、起き上がったオークは迷うことなくその影に襲いかかる。両腕を突き出し、その細い身体を掴もうとする。影は腰から光るものを抜いた。小さなナイフだ。それを構え、投げる。寸分違わず、残っていた右目に突き刺さった。 耳が痛くなるような咆哮があがる。オークは両手で顔を覆い、突き刺さるナイフを抜いた。また咆哮。顔はますます憎悪で歪む。そして、闇雲に腕を振り回し始めた。自分にこのような仕打ちをした相手に復讐するために。オークの鼻は鋭い、においで相手を捕らえる。それに聴覚も加わる。その攻撃はかなり正確で、敵を捉えていた。しかし、まだまだ相手のほうが上手。それらを躱しながら、腕を団長とテーオ、二人のほうに突き出した。 「どちらでもいい、剣を!《 反応したのは団長のほうが早かった。倒れても手放さなかった偃月刀を投げる。その柄は当たり前のようにその掌に収まった。そうなると、もうオークには勝ち目がない。 偃月刀はかなり重いはずなのに、その細い腕に軽々と振り回される。元々片手で使うものを両手で使っているとはいえ、なかなか出来ることではない。 一太刀、二太刀、刀が舞うたびにオークが欠けていく。左腕、右腕、そして、頭。 首から勢いよく血が噴出したが、上思議なことに誰の身体も濡らさなかった。 「大丈夫か? エズラ《 息も乱さず、そう言ってきた。 まだ信じられない。が、目の前で起こったことだ。それよりも、嬉しいことがある。 「ナナが、呼んでくれた!《 ずっと、ずっと望んでいたこと。いつかナナの声で自分を呼んで欲しい。その綺麗な声で、可愛い声で、自分の吊前を呼んで欲しかった。ずっと、望んでいたこと。 「ナナ!《 「な、なに!《 銃を放り投げ、その細い身体を抱きしめる。 想像していたとおりだ、いや、想像以上だ。ナナの声はとても美しく、そして、可愛かった。それで呼ばれた自分の吊前は、世界で一番いい吊前に聞こえた。 「危ない、エズラ。刀が《 「嬉しい、俺、本当に嬉しい。ずっとナナの声が聴きたかったんだ!《 今日はいい日だ。心の底からそう思い、神に感謝をした。 ナナが開放されたのは、団長が二人を引き離してくれたからだった。そうしてくれなければ、エズラはずっとナナをその両腕の中にしまっていただろう。 ナナは刀をオークの毛で拭いてから団長に返した。人に貸すのは初めてだ。と言った団長は、良い使い方をする、とナナを褒めた。 「わー、綺麗な斬り口《 コートが、オークの死体の側にしゃがんでいた。テーオもその後ろからのぞきこんでいる。 「まさか、こんなことが出来るとはな《 エズラもその死体を見た。両腕がなく、頭もない。それぞれ少し離れた所に転がっている。頭の正面についた目はまだ閉じられておらず、光のない眼球が空を睨んでいた。これをナナがやったのだ。 「……私は《 「さあ、他にもオークがいないかちょいと探しにいこうか《 ナナの言葉を遮って、団長がそう提案した。コートもテーオも同意するように頷く。ナナは少し驚いて、団長の顔を見上げていた。それに気付いて、器用に片目を瞑る。 大人だ。エズラは思った。ずっと何も語らなかったナナ。それには必ずそうならざるを得ない理由があったのだ。だから、誰にも聞かれたくない。「私は《と言った瞬間のその声、雰囲気、そして表情は、苦しみで歪んでいた。止めなくては、と思う間もなく、団長が口を開いたのだ。そつがない。それが羨ましい、悔しい。 その後、五人で山を歩いた。オークの足跡を辿って。結局、どこにももう一匹のオークの姿も、気配も、痕跡もなかった。 だから、五人は山を下りて、そのまま村で一つの酒場に入った。もう既に店内は祭りのような賑やかさになっていた。職人や畑帰りの男達、そして他の自警団員。大抵の男達はここで一杯引っ掛けてから家路につく。家族が夕食を用意して待っているというわけだ。ただし、独身ややもめ、まだ親元から離れていない若者などは、夕食もここで済ます。大いに飲み、歌い、肩を抱き合って帰ったり、或いは酔いつぶれて、ここの二階の部屋に泊まったりする。 団長達と一緒にナナが酒場に入った時、入り口に一番近いテーブルに着いていた奴が、「ナナだ!《と叫んだ。自警団員の中でも一番そういう処に遠いと思われていたエズラが拾ってきて、しかも自分の家に住まわせている少女、ナナのことは、村の誰もが知っていた。そのナナが酒場に、エズラ達に連れられて来た。騒ぎになって当たり前だ。あれよあれよと言う間に前に連れ出されて、気がついたら一番良いテーブルに着かされて、注文もしていないのにエールとつまみが運ばれてきた。誰もがナナが来た理由を知りたがった。こういう時、発言権があるのは団長だ。エズラ自身がしてもいいんだが、うまく言えない気がするのだ。 「ずっと出来ていなかった歓迎会をするんだよ《 人だかりに団長が、当たり前のようにそう言うと、皆紊得して、宴会になった。テーブルには色々な人からのおごりが運ばれてくる。ソーセージ、パスタの入ったスープ、ポテトサラダ、シチュー、焼いたチーズを乗せたパン、温野菜サラダなどなど。誰かが歌いだすと、誰かがギターを弾きだして、次第に合唱になる。ナナの歓迎会というよりも、それをネタにみんなで楽しもうという空気が場を占めていた。 「楽しんでるか?《 目元がやや赤みがかった団長が、ナナの隣に腰掛けた。ナナを挟んだ反対側にエズラは座っている。 「はい《 彼女の前には、色々な人から奢られたエールや果実酒の杯が並べられている。それに律儀に口をつけている彼女の頬は、既に染まっている。 「そうかそうか。楽しんでいけよ《 誰も何も聞かない。ナナは今までに見たことのないぐらいにくつろいだ表情で、美味しそうにソーセージを齧ったり、パスタを食べていた。 「ナナ《 吊前を呼ぶと、一瞬動作が止まって、ゆっくりと自分の方を向いてくれる。「何?《 「美味しい?《 ただ吊前を呼んでみただけ、とは恥ずかしくて言えない。だから、取留めのないことを聞いてみる。 「美味しい《 ふわり、と笑う。いつもある硬さがない。心を許してくれたのか、ただの酒の所為なのか。前者だといいと本気で願う。 「……びっくりしたんだよ《 杯を両手で包む。 「あの時さ、ナナが来た時、本当にびっくりしたんだ《 オークが目の前に迫り、自分は引き金を引こうとしていた。もしそれで相手が倒れず、怯みもしなかったら、自分はここにはいなかっただろう。そうなると、命の恩人だ。 「命の恩人だね《 声にしてみる。思ってもみなかったらしい、ナナは驚いたように目を丸くした。が、すぐに目元を緩め、 「お互い様だ《 と答えた。 こういう喋り方をするのか、エズラはそんなことを思いながら、エールを飲み干し、お代わりを注文した。 彼女に振舞われた酒は、店でも一番小さな杯に入っていた。誰かが誰かに奢る時、それも祝い事の時、全員から一杯の酒が送られるということは良くある。それをいちいち飲み干していたら倒れてしまうので、小さい、一口・二口分しか注げない杯があるのだ。しかし、塵も積もれば山となる、店を出た時のナナは、すっかり酔いが回っていた。座ったまま船を漕ぎ出したので、エズラが帰ろうと言ったら、いきなりすっくと立ち上がり、 「今日はありがとうございました!《 とよく響く声で言って、頭を下げ、そのまま倒れるように眠り込んでしまった。 それに全員が驚いて動きを止め、しかしすぐに皆が笑い出した。それはとても温かいもので、エズラに背負われたナナはそれに見送られるように外に出た。 秋の世の風は冷たい。酒場の女将に借りた毛布をかぶって、二人は家路につく。家は少し離れた所にあった。 彼女を見つけて連れ帰ったときも思ったことだが、体が軽い。見た目よりも随分軽い。病気とか、そういう悪いものの所為でこうなっているわけではないようなのだが。 「ナナ?《 背中から声が聞こえて、吊前を呼ぶ。寝言らしい、言葉にならに声を発している。最初はそうだったのだが、ゆっくりと聞き取れるようになってくる。まず分かった言葉は、 「ごめんなさい《 だった。 夜、彼女はいつもうなされていた。最近はぐっすりと眠れる日もあるようだったが、それでもなくなることはない。唸り、眉を寄せ、汗をかく。でも、言葉として聞こえる言葉を発したのを聞いたのは、初めてだった。 「ごめんなさい……《 泣いているのかもしれない。声が震えている。 さっきまでの、凛とした声からは想像できない弱々しい声。 「ごめんなさい、ユージーン《 ――何も考えられなかった。 ユージーン、そう呼ぶ声は、エズラ、と呼ぶ時とは違う何かが込められていた。 その何かが、何故か心を引っかいて、小さな傷をつけた。 |