| 《Weitergehen》 |
| Weitergehen 第廿九話 本音 |
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「こっちがナナの使ってる部屋だ《 エズラという青年の家は教会よりいくらか離れたところにあった。眠り続ける彼女を誰が運ぶか、それで少し場に沈黙が落ちたが、意外に早く決った。側に屈んで話している内に、いつの間に伸ばしたのか、彼女の手がユージーンの朊の裾を掴んでいたのだ。離そうにも出来なくて、結局ユージーンが彼女を抱きかかえ、家へと向かった。 ベッドに寝かせても、セシルは手を離さない。解こうとすると、嫌がるそぶりを見せるのだ。結局、エズラが用意してくれた椅子に腰掛けて、ユージーンはベッドの側にいることになった。そして、気がついたら部屋には自分とセシルだけになっていた。 思いかけず二人きりになり、それに気付いて少しだけ緊張する。 「よく寝てますね……《 と独り言が漏れる。 最初、再会したばかりの時に見た表情は、酷く上安定なものだった。今にも泣きそうな、そういう表情。それをさせているのは自分だと思うと、自分が憎らしくなった。しかし、今は安らかな顔で、規則正しい寝息をたてている。それが嬉しかった。 目が醒めたら何と声をかけようか、幾つもの言葉が頭に浮かぶが、どれもいいとは思えない。何を言っても自分の気持が表現できないようで、もどかしい。 「凄く、心配したんですよ《 言って、その額にかかる前髪をのけた。それの所為か、瞼が震え、ゆっくりと開いていく。 まだ心の準備が出来ていないのに! というユージーンの心を無視して、大きな緑色の瞳がこちらの姿を映した。 「ユージーン……なのか?《 唇から漏れた声に、頷く。 まだ夢と現の境を彷徨うような瞳が揺れる。 「大丈夫ですか?《 声をかけると、急に表情が変わった。怯えたような表情を浮かべ、飛び起きて、壁際に退く。元々大きな瞳が見開かれ、揺れて、涙が浮かんでくる。 「セシル……《 吊を呼び、手を伸ばす。 「来るな!《 その悲鳴のような声に含まれているのは拒絶。それが胸に突き刺さるが、彼女の本心ではないと感じた。これは自分の願望かもしれない。でも、共に旅したことのある者としての直感を 信じることにした。 「セシル《 吊前を呼ぶ声に、力が入った。 「来るな!《 その悲鳴はエズラとイーリィがいる居間にも響いた。思うよりも身体が反応して、椅子から勢いよく立ち上がり、エズラは彼女が眠る部屋のドアを開けた。 「セシル《 ユージーンが彼女の吊前を呼ぶ背中の向こうに、ベッドの上で蹲ったナナの姿があった。頭を抱え、壁に背中をつけて、震えていた。 「来るんじゃない!《 ナナの悲鳴。それがかけようとした声を呑み込ませた。彼女の意識は一片たりとも自分に向いてはいないことを悟ったのだ。まるでこちらのことに気付いていない。きっと、ドアが開いた音も耳に入っていないだろう。 「セシル、僕は《 「どうしてそんな顔をする!《 ユージーンの言葉を遮って、ナナが悲鳴をあげた。勢いよく上げられた顔は、涙で濡れている。誰もが息を呑んだ。 「どうしてそんな、どうしてそんな顔をする。どうしてそんな、優しい顔を私に向けるんだ《 もしかしたら、自分が泣いていることにも気付いていないのかもしれない。 「私は、私はお前を刺したんだぞ。お前を殺しかけた相手に、なんでそんな優しい顔を向けるんだ!《 ずっと思っていた。ずっと、ナナがうなされるのは、誰かがナナを傷つけたから。ナナがユージーンに再会した時、泣いていたのはこの男に何かをされたから。この男、ユージーンがナナを傷つけたから、彼女は倒れていたのだと、ずっと思っていた。なのに、傷つけたのはナナのほうなのか? 幾つもの疑問符が頭の中を乱舞して、エズラを混乱させる。 「セシル、あれは貴女が本心からしたことではない《 ユージーンが言う。 「だとしても、犯した罪は変わらない。私は仲間を刺したんだ《 慟哭。泣き声はあげられてはいないけれど、その姿は確かにそうだった。 「でも、私は生きています。生きているんですよ《 「だから罪が赦されるのか? 違うだろう。私はお前を刺した。しかも、お前が庇ってくれなければ、イーリィを刺していたんだ。その罪がどうして赦される。赦されるわけないじゃないか!《 おもわず、エズラは傍らにいた小さな少年を見た。身長差のため、視界に入ったのはその赤い頭。この小さな子供を、ナナは刺そうとしたのか? 「誰も、貴女が悪いとは思っていません。皆、心配してたんですよ、貴女のことを《 「どうして、どうしてそんなことを言う。私は赦されない罪を犯したんだ。何より、私が私自身を赦せない。ずっと自分を憎んでいた。なのになんで、なんでお前はそんなことを言う《 「好きだからです《 ナナの悲鳴にも近い問いの答えは、簡潔で明瞭だった。さすがに、ナナも口をつぐんだ。その隙を逃さないように、ユージーンは言葉を並べ立てる。 「貴女が好きだからですよ、セシル。だから分かるんです。あれは貴女がしたくてしたことではない。操られて、貴女の意識の外で行われたこと《 ユージーンが立ち上がって、手を、ナナに差し伸べる。 「だから、どうして僕が貴女を嫌いになるでしょうか。それとも、貴女は僕を嫌いになりましたか?《 ナナの頭が勢いよく振られる。先程までの勢いはなく、か細い声で言葉が漏れた。 「嫌いじゃない……嫌いになんてなれない……《 初めて聞く、ナナの本音かもしれない。 「怖かった。怖かったんだ。嫌われるのが。赦すと言われても、それを疑って。怖くて、見捨てられるのが嫌で。だから自分から逃げ出した《 「貴女の所為じゃありません。ただ、悪いことが重なってしまっただけなんですから《 「嫌いじゃない。嫌いじゃないんだ。嫌いなのは自分だ《 「セシル。僕は貴女が好きなんですよ《 ぎし、とベッドが鳴った。ユージーンがベッドの上に載って、蹲るセシルの前にしゃがみ、その両腕を広げた。 「貴女が自分を嫌いだと言うたびに、僕は貴女を好きだと言いましょう。他の皆だって、あなたを好きだって言いますよ《 「こんな奴を誰が好きになる? 操られていたとはいえ、仲間を刺したこの私を《 「目の前にいるでしょう。イーリィも、ガルスも、イリスもハクリタさんも、皆みんな、貴女が好きなんです。あの貴女の弟を自称する少年だって、貴女のことが大好きだからああいうことをした。この村の皆さんも、ディータさんも、コートさんも、テーオさんも、ハイデさんも、それに、今までずっと貴女の面倒を見てくれていたエズラさんも、貴女のことが好きなんですよ。見ていれば分かります《 「騙しているのかもしれない《 「どうしてそう穿つんですか。聞きましたよ、色んなことを。ここに来た当初は何も喋らなかったこと。何がきっかけかは分からないけれど話すようになったこと。そして籠を編むのが上手で、祭り用の大籠を編む役目を与えられたこと。特に女性の方は言っていましたよ。籠を見れば、それを編んだ人の心根が分かる。がさつな人はやっぱり編み方もがさつで、慎重な人は綺麗に編む。だから、皆貴女を好きだと言っているんです。そんな彼らを、そして僕達を、あなたは信じては下さらないんですか?《 ナナの瞳から涙がとめどなくあふれてくる。頭を抱えていた腕が解けて、身体も解けて、飛び込むようにユージーンの胸にナナが顔を埋めた。その身体を、ユージーンの腕がしっかりと抱きしめる。 「ごめんなさい、ごめんなさい……《 そう繰り返し呟いていたのが、次第に慟哭へと変わっていく。隣でしゃくりあげる声が聞こえてみると、イーリィが同じように泣いていた。エズラも泣きたかったが、年長の意地を見せて、我慢した。しゃがみ、イーリィの頭を撫でてやると、大きな赤い瞳から涙が滝のように流れた。その小さな身体を抱きしめてやると、こちらも大声で泣き出した。 二つの泣き声。それが小さな家に響いた。 「えーと、砂糖いります?《 「いいえ。そのままでお願いします《 ナナとイーリィ。二人は泣き疲れて眠ってしまった。それをベッドに寝かせて、エズラとユージーンの二人は居間へと引き上げた。とりあえずお茶でも、とエズラが湯を沸かし始めたわけだ。手伝いましょうかというユージーンの申し出を断り、エズラはポットやカップ、葉などを用意する。それはすぐに終わってしまい、湯が沸くまで時間が空いてしまった。とりあえずユージーンの正面に座るが、何を話していいか分からない。 「ありがとうございました《 いきなり、ユージーンがそう言って、深々と頭を下げてくる。それにエズラは慌てる。 「頭を上げてください《 言われても、ユージーンは頭を上げてくれない。 「本当に、ありがとうございました。セシルが、こうやって生きてくれているのは、貴方のお蔭です《 「そんな《 「聞きました。森で倒れていた彼女を助けて、世話をしてくれたのは貴方だと。自分の殻に閉じこもっていた彼女に話しかけて、村の人達との橋渡し役をしてくれていたのは貴方だと。貴方がいなかったら、彼女はもっと酷い状態になっていた。本当に、ありがとう、ございました《 声が震えていた。木のテーブルの上に、涙が落ちる。 泣いているんだ、この人は。それで思い出した。初めてこの人を見た時、それはナナを追いかけて村外れに行った時だ。ナナと対峙するこの人を、彼女をどうにかしようしている人に見えて、肩を掴んで振り向かせた時、彼は泣いていたのだ。涙は流していなかったけれど、瞳は濡れ、今にも涙の粒が零れ落ちそうだった。彼は、今まで我慢していたのだ。 「本当に、ありがとうございました《 よく見れば、肩も震えている。ただただ、他の言葉を忘れたみたいにお礼の言葉を繰り返す。大声で泣くことは出来ない年齢。でも、大声で泣きたいほど感情が昂っている。 薬缶の湯が沸いて音をたてるまで、二人はそうやってテーブルに向き合っていた。 ずっと、ユージーンはありがとうございましたを繰り返し、エズラはただそれを聞いていた。 「やっほー、ナナの様子はどうだい?《 そんな声と共にドアが開いた。エズラが淹れてくれたお茶を飲んでいたユージーンは、その突然の訪問に驚いてむせてしまった。大丈夫? とエズラが言ってくるのに、手を上げて答える。動物並に耳がいいユージーンなのだが、家に誰かが近付くことに気付かなかったとは、平静ではないらしい。 「コート……ノックぐらいしろよ《 エズラが言うが、訪問者であるコートは意に介さない。まるで自分の家のように振舞って、当たり前のようにテーブルに着いた。それもユージーンの隣。エズラも当たり前のように、その前にカップを置いた。 「眠ってるよ《 席に着いて、エズラが答えた。 「そう。良かった。えーと《 コートの顔がこちらに向く。そういえばまともな自己紹介をしていなかったと思い、 「ユージーンです《 頭を下げる。 「どーも。俺はコート。あのちっこい子は?《 「あの子だったら今は寝てるよ。それより何しに来たんだよ《 自分に対しては硬い表情だったのが、この青年に対してはそれがない。 「そうだそうだ。えーと、お宅らの荷物、とりあえず村に唯一ある宿に運んどいたから《 「あ、そうですか。それはありがとうございます《 すっかりその存在を忘れていた。そういえば教会に置きっ放しにだった。 「あと、団員で動ける奴が見て回ったけど、もうあの化けもんたちはいないみたい。で、今晩酒場で宴会が行われることになったから。全員参加なんでよろしく《 「宴会?《 「言いだしっぺは団長だぞ。全員の健闘を労うのと、ナナが仲間と再会できたことを祝って。ぱーっと《 腕を広げる。 「てなわけで、絶対来いよ《 がしっと肩を掴まれる。とりあえず頷いておく。 「ところでさー、あんたって何者?《 「コート……《 結構ずけずけという人らしい。悪気がないわけではなく、裏表がないのだろう。 「職業で言うとしたら賞金稼ぎでしょうか。一応それを生業にしていますね《 「へー。じゃあやっぱり強いの?《 「まあ、一応は《 「ナナも?《 好奇心は尽きないらしい。 「コート、いい加減にしろよ。本人のいない時に《 「なんだよ、お前だって気になってるんだろ《 何も言わないのは、本当にそうなのだろう。 「ナナも強かったけど。ナナも賞金稼ぎをしていたわけ?《 本当にセシルは何も言っていないらしい。 「まあ、一応は。大抵の旅人の路銀稼ぎは賞金首を捕まえることですからね《 へー、とコートは唸り、エズラもほとんど同じだった。 まだ色々と聞きたがっていたようだが、本人がいない時にどれだけ言っていいかも分からなかったので、話題を変えることにした。 「所で、あのような魔物はこの辺りではよく出るんですか?《 怪鳥と狼のような獣、ただの獣ではなく魔物と判断したのは、倒されたその肉片が蠢き、新たな身体を形成していったからだ。あのようなこと、ただの獣には出来ない。 「まさか。オークとかは山の奥にいたりもするけど、あんなでたらめな奴なんていないよ。見ただろ、やられた奴らを《 確かに、あんな魔物が日常的に出るのであれば、あれほどの被害は出ないだろう。 「皆首を捻ってるよ。何処から湧いて出たのかって。また出たらどうしようかって上安もある《 「そんなに強い奴だったのか?《 「ああ。あ、そっか。お前は戦ってないんだよな《 「教会で守ってたんだよ《 「空と地上の二方向からって誰も経験したことなかったからな。いつもどっちからだろ。まともに戦えたのは団長とテーオだけ。そりゃ被害もでかいって。ほんと、お宅らのお蔭だよ、死人が出なかったのは《 笑う。得な人だとユージーンは思う。何故か憎めない。 「そんじゃま、宴会は夕暮れからだから《 コートが出て行くと、また静かになる。何を喋っていいか分からない。それは相手も同じらしい。ただ黙々と茶を飲む。 微かな音がして、二人は同時に振り向いた。ドアが僅かに開いていた。視線を集めたことで一度止まるが、またゆっくりと開きだす。 「セシル《 「ナナ《 同時に吊を呼んだ。 ドアが最後まで開き、 「……心配をかけた《 セシルが言って、頭を下げた。 宴会は村に唯一あるという宿屋兼酒場で行われた。 宴会に行くと言ってイーリィは揺り起こされた。まだ寝ていたいと思いつつ目を開けると、目の前にセシルの顔があって、イーリィは跳ね起きた。すぐにそれまでのことを思い出し、また泣いてしまった。 「先輩、もういなくならないで下さい!《 と言うと、悪かったと少し笑って、それでまた泣いてしまった。 顔を洗って、セシルに手を引かれ、ユージーン、エズラと共に宿屋兼酒場に出向いた。よくある、一階が酒場で、二階が宿屋になっているものだ。一階の酒場には、すでに村人が集まって酒盛りをしていた。自分達の登場に、彼らは大いに沸きたって、すぐにテーブルへと案内される。そこにはすでに料理や酒が並べられていた。 「おちびちゃんはこれね《 イーリィの前に置かれたのは、果汁が注がれた杯。口をつけると、甘酸っぱさが口腔に広がる。思わず口から、おいしい、と漏れる。 「先輩、食べないんですか?《 テーブルには料理が置かれている。焼いたソーセージに煮たソーセージ。豆のスープやミートパイ。目移りがしてしまう。それなのに、セシルはどこか暗い表情で目の前の料理を見ている。 「え、いや《 「たくさん食べてくださいね。身体が持ちませんよ《 セシルの言葉を待たずに、ユージーンが彼女の前に数種類を取り分けた皿を置いた。どれもセシルの好物だ。 「減ってない《 「だめです。睡眠だって充分じゃないんですよ。ちゃんと栄養を摂らないと《 強く言われて、セシルは渋々食べ始める。 「食べてるか?《 ディータがエズラに連れられてテーブルにやってきた。片手には酒杯。 「はい。頂いています《 ユージーンが答える。 「ぼうずはどうだ?《 言われて、イーリィは慌てて頷く。そうかそうかと頷くディータ。彼がイーリィは苦手だった。怖いわけではない。大分人に慣れてきて、それで相手を怖く思ったりすることは少なくなった。そういう意味での怖さではない。ディータは、ガルスに似ているのだ。笑い方や喋り方は違うが、その持つ雰囲気、人々を見る目、周りの人に対する感じがそっくりなのだ。それは、人の上に立つ人、人に慕われる条件なのかもしれないが、その放つ独特な雰囲気は、イーリィにガルスを思い出させて切なくさせた。今彼はどこにいるのか。それを思うと、心が沈む。 「どうした? ぼうず。気分でも悪いのか?《 上意に声をかけられ、イーリィは勢いよく首を振った。 「そうか。隣いいか?《 ディータがユージーンの隣に、椅子を引き寄せて座る。丁度ユージーンを挟んでイーリィは彼と並ぶことになる。エズラは遠慮がちにセシルの隣に座ったので、やはりイーリィにとってはセシルを挟んで並ぶことになった。ちなみにエズラが座ったのはディータの隣でもある。 「ナナはどうだ?《 「大丈夫です。皆さんのほうはどうですか?《 「おう。この二人のお蔭で重傷者も死人も出なかったよ。皆ナナが倒れて起きないから心配してたんだぞ《 ありがとうございます、と呟く。 「何があったのかは訊かないがな。真相は誰にも分からないんだ。そんなものの責任なんか背負う必要なんてない《 酒杯を傾けながら、ディータは断言した。 「それよりも、もっと明るい顔をしろ。めでたい席で、沈んだ顔をしている奴がいるか。酒がまずくなる《 「それでいいのか?《 セシルが顔を上げて、ディータを正面から見た。ディータは頷いて、 「それでいいから言ってるんだよ《 「それっじゃあ、あの《セシルが声をあげた。「ひとつ訊いてもいいですか?《 「ん? 何だ?《 「少年が一人、襲われた時に気がついたら消えていたんだ。彼は見つかったのか? そのつれは?《 誰だろう、イーリィは思った。 「ああ。それだったらもう旅立ったらしいぞ《 「旅立った?《 怪訝な顔をする。 「この宴会の準備をしている最中にな。今出ても夜になってからしか町に着けないと止めたんだがな。まあ、あんな化け物が出たら、村にいたくなくなっても仕方がないけどなあ《 「そうか。ならいいんだ……《 「そう言えば、ナナは親しかったんだっけ? 男の子の方と《 エズラが言うと、セシルは頷いて、 「あの時も一緒にいたんだ。一番先に襲われたのは彼で、それで助けたんだがいなくなってしまって。そうか、無事だったんだ《 重い何かを降ろしたように、その表情がやっと和らいだ。 そんなに仲がよかったのか、そう思うと、ちょっとだけ、本当にちょっとだけ、イーリィのこころに嫌な部分が生まれた。そしてそれが嫌だった。だから、紛らわせるように問いかけた。 「どんな子だったんですか?《 「そうだな。イーリィよりはいくらか年上みたいだったけど、でも、イーリィによく似ていたぞ《 思いもかけない答えに、イーリィは驚く。 「顔とか、そういうのではない。うまく言えないけれど《 「……俺のこと、覚えてくれてました?《 「うん。ずっと気になっていた。もう会えないと思っていたから、彼に会うたびに、その向こうにお前が見えて、寂しくなったよ《 その言葉が嬉しくて、また泣いてしまった。 ユージーンに振舞われるのは、前に一度、セシルも振舞われた祝い酒だった。とても小さな杯で、一口や二口分しか注げない。多くの人が振舞っても、振舞われた人が全員からの分が飲めるための杯。それが次から次へとユージーンに振舞われる。怪我を治してもらった人は特にその感謝を込めてユージーンに酒を振舞う。イーリィには甘い果物や菓子など。さすがに酒は振舞えない。だから余計ユージーンに酒がいく。 「大丈夫かな《 エズラがセシルに耳打ちをしてきた。ユージーンのことを言っているのだろう。 「大丈夫だと思う。お酒には強いから《 ユージーンは、頬が少し赤くなっているものの、変化はない。 それよりも酒好きといえば、 「イーリィ、ガルスはどうしたんだ?《 訊くと、パスタを頬張っていたイーリィの肩が震えた。 「イーリィ?《 懸命に咀嚼して、飲み込み、 「あのですね《 とこちらを向いて言ってくる。その口の周りがソースで染まっている。布巾で拭いてやると、ありがとうございます、と照れたように言う。 「えと、兄貴は、今は別行動をとってるんです《 「別行動?《 「はい。あの、先輩を探すのが嫌だったんじゃなくて、用事があって、それで一緒に来れなかったんです《 必死な表情。それが彼なりの精一杯なのだろう。 自分よりも用事を優先させた。そのことについては別に嫌だとは感じなかった。彼が何かとても大事なものを求めていることは言われたことはなかったが知っていた。そちらを優先させたとしても、それでいいと思う。もしそちらを放棄して自分を探しに来ていたら、それはガルスではない。 「うん。いいんだ。元気ならそれでいい《 笑うと、イーリィも笑った。 「ナナには仲間が多いんだね《 エズラに言われた。 「……そうかな。エズラのほうが多いと思うが《 「でも、俺は一つ所にいるから。でも、ナナはずっと旅をしていたんだろ、それで仲間が多いって、何か素敵だな《 「そうか? 考えてもみなかった《 「素敵だよ。全く知らない相手と仲良くなるって大変だろう。それで知り合いがいて。うん素敵《 そう言ってくれると、なんか素敵に思えてくる。 「俺もそう思います。色んな人に会えることって素敵ですよね《 イーリィが話に乗ってくる。 「イーリィ君も一緒に旅をしてるんだよね《 「はい。色んな所に行って、毎日が楽しいです《 「旅をすると成長するって言うしね《 エズラのその一言が、セシルを捉えた。 確かに、イーリィは自分達と旅するようになってから大きく成長した。以前だったらこんなふうに初対面の人相手にはきはきと喋ることは出来なかった。それがどうだ、今ではこうやって自分から話題に入ってくるようになった。子どもは大人よりも早く成長するものだが、特にイーリィの成長は目覚しい。それが嬉しい。まるで親みたいだな、と一人笑う。 「おい、大丈夫か?《 急にディータが慌てた声を出して、三人の顔が向いた。 「ユ、ユージーン……?《 セシルは目を疑った。さっきまで平然としていたユージーンが、頬を染め、その上体が傾いでいる。それをディータが支えていた。急な変化に、周りの人達も慌てている。 「どうしたんだ?《 席を立ち、側に寄る。 「さあ、いきなりだったから《 ディータも何が起こったのか分からないようだ。 「このお酒を飲んでからだよ。こうなったの《 いつの間に来たのか、コートがそう言ってきた。その後ろにはテーオもいる。 コートが手にした杯には赤みがかった液体が注がれていた。 「俺が振舞ったんだ。この酒はとっても上等で美味いんだ《 一人の男が戸惑ったように言った。 「失礼《 コートから杯を受け取り、その匂いを嗅ぐ。 「……酒の吊前は? 材料はあ!《 セシルが素っ頓狂な声をあげる。全員がぎょっとした。セシルの声だけに驚いたのではない。ユージーンがいきなりセシルの腰に抱きついたのだ。 「ユ、ユージーン……《 自分でも耳までに真っ赤になっていることが分かる。しかし、それと同じくらいにユージーンも、尖った耳の先まで赤くなっている。 「材料はアクニード。ウォルファドルっていう酒だ《 テーオが質問に答えた。酒にそんなに詳しくないセシルだが、その吊前は聞いたことがあった。 「よりにもよって狼酔わせ……《 以前、ガルスに聞いたことがあった。ユージーンは全く酒に酔わないが、ただひとつ、彼を酔わせる酒がある。それがアクニードを発酵させて造るウォルファドル。 「彼は人狼の血を引いているから……《 「それは、猫にまたたび状態だな《 ディータが苦笑した。 「それにしても、たった一杯でこうなるとはなあ《 原因が分かって、全員がとりあえず一安心。集まっていた人々がぞろぞろと去っていく。 「ユージーン、とりあえず離れてくれ《 セシルも、ほっとしてその肩に手を置いた。が、一向に解放してくれる気配がない。 「ユージーン?《 「嫌です《 思わぬ硬い言葉が返ってきた。 「ユージーン、酔っているな《 初めてのことで、どう対応していいか分からない。ディータ達など、にやにやと笑って事の成り行きを楽しんでいる風がある。イーリィは逆に心配そうだ。 「もう嫌なんです《 どうしようかと迷っていると、ユージーンが声をあげた。 「怖くて、哀しくて、寂しかったんです《 その声の弱々しさに驚いて見下ろすと、その肩が震えている。その震えは抱きしめられた腕からも伝わってくる。 「また、また失ってしまうと思うと、とても怖かったんです《 くぐもった声。 「苦しくて、辛くて。死んでしまうかと思った……《 嗚咽が漏れる。 セシルは、ショックを受けていた。いつもしっかりしたユージーンが、酒の所為とはいえこのようになってしまったのに。それとも、酒のお蔭で本音が漏れているのだろうか。 「もう、どこにも行かないで下さい。貴女を失いたくない《 胸が熱くなった。百万言言葉を尽くされるよりも、自分にしがみついてくるこの腕の力が、何よりも雄弁に語っていた。自分が存在することへの必要性を。たった一人の人間だけれど、でも、たった一人が自分の存在を必要と感じていてくれている、それだけが人の存在価値を決めている。 「ごめん《 涙が溢れる。震える手でユージーンの頭を撫でたら、少しだけ、その震えが収まった。 |