《Weitergehen》





Weitergehen 第三十話
セス

 すっかり泣き終わって、むしろ泣き疲れてユージーンが寝入ってしまったのは、少し経ってからだった。その間ずっとユージーンはナナに抱きつき、ナナはその頭を撫で続けていた。嗚咽やしゃっくりが聞こえなくなって、替わりに寝息が聞こえるようになってから、ナナは撫でるのを止めた。
「すみません。部屋に運んでもいいでしょうか《
 宿の女将を呼び止めて、ナナが尋ねた。女将はすぐに部屋の鍵を奥から持って来て彼女に手渡した。
「運べるか?《
 抱きつかれた腕を外すナナにディータが訊く。無理もない。ユージーンはナナよりも背が高い。身体自体は細いが、全体は大きい。
「無理かもしれません《
「だろうな。エズラ、手伝ってやれ《
 急に話を振られ、エズラは反応が出来ない。が、ナナに見られて、思わず頷く。
「すまないが、よろしく《
 腕を解き、そのまま背中に担ぐ。思いのほか体重が軽くて驚く。
「……余所の人って体重が軽いものなの?《
 思わずナナに訊いてしまう。
「ユージーンはエルフの血も引いている。多分その所為だろう《
 セシルは律儀に答える。
「通路から左側の奥の部屋だよ《
 女将が背中に言ってきた。よりにもよって一番遠い。運ぶこと自体には抵抗はなかったが、歩きにくいのと、注目を集めるのには困った。ホールにはいくつものテーブルが置かれ、そこには多くの客がいる。それを避けながら進むのは一人の時でも大変なのに、人を背負った今の状態はもっと大変だ。さすがに皆避けてくれるが、それでもテーブルに当たりそうになる。それほど階段から離れた席ではなかったので、それはすぐに終わった。それが物理的なものだとしたら、もうひとつは精神的なもので、それが辛かった。ほとんど全ての視線が突き刺さってくるのをエズラは感じていた。好奇心。自分がナナを特別だと思っていて、そして、ナナの仲間だと言うユージーンに対して複雑な気持ちを持っていることは、どうやら全員が察しているらしい。さてどうなるか、という好奇心がその視線には込められている、気がする。ただ、大の男が酒に酔い潰れて、泣いて、人に運ばれると言うことが面白いのかもしれない。そんな風に思ってしまう自分は自意識が過剰なのかもしれない。自分が複雑な思いを抱いているから、そんな風に感じるのかもしれない。
「気をつけて《
 階段に差し掛かった時、ナナが後ろから言ってきた。
 背中に誰かを背負って階段を上るのは骨が折れる。が、それで注目を振り払えると思って階段を一段ずつ上った。ゆっくりとホールの声が遠のいていく。
 ナナがドアを開け、押さえてくれる。部屋は一人部屋だった。ベッドと小さな棚がある。正面と右手に窓があって、カーテンが閉まっていた。ナナがベッドの掛け布団をどかしたので、ユージーンを寝かせる。
「朊は、皺になるけど仕方ないな《
 言いながら、でも上着だけは脱がせる。エズラが上半身だけを起こし、ナナが手早く上着を脱がせた。布団をかぶせてから、それを壁のハンガーに掛けた。
 部屋は暗い。もう日も暮れているから無理もない。しかもカーテンも閉めている。ランプはあるが、どちらも点けようとはしない。
「エズラ《
 エズラが吊前を呼ぶ前に、ナナがエズラの吊を呼んだ。
 部屋が暗いので、今相手がどのような表情を浮かべているか分からない。
「私はここにいる。戻っていいぞ《
 言われては、留まる理由がなくなってしまう。
「うん、分かった《
 自分でも情けないと思いつつ、エズラはそう答えてその部屋を後にした。

 びっくりした。そうイーリィは心の中に語りかけた。
〈酔ったことか? 泣いたことか? それともその言葉か?〉
 すぐに身の内から返事が返ってくる。イーリィの精霊のグリューエンだ。彼とは音を使わず意識で会話が出来る。どれだけ周りが騒がしくても、二人だけの内緒話が出来る。
 セシルに待っていなさいと言われたイーリィには、会話する相手はグリューエンしかいなかった。同じテーブルには依然ディータがおり、その側にはテーオとコートもいた。が、気軽に話せるほどイーリィはまだ彼らに慣れていない。それに、三人は自分達だけに分かる会話に熱中している。
〈全部かな。先生があんな風になるって〉
〈病院でも似たようなことがあっただろう〉
 セシルがいなくなったと聞かされたユージーンが慟哭した声は、今でも耳の奥に残っている。その時もショックだったが、今のそれとはいささか違う気がする。やはり、聞くだけとその場に居合わせるのとは違うのだろうか。
〈う~ん。なんか、先生の本音を聞けた感じ? ほんとは俺以上につらかったんだろうなって〉
 きっとそうだ、と口にしたことで確信した。セシルがいなくなってしまったきっかけになったのは、彼女が操られてユージーンを刺したからだった。実際は自分が逃げなかった所為なのに、それらを全てユージーンは背負ってしまっている。その重責を感じさせない振る舞い。それが、お酒によって表に出た。
〈俺以上に、先輩が見つかったことを喜んでいるんだろうなって〉
 同意の気配が身の内から浮かんでくる。
「いつもああなの?《
 突然声が振ってくる。驚いて振り向くと、コートがこちらを見下ろしていた。どういう意味だろう、という疑問が顔に表れたのを見てとったらしい、
「お酒に酔う体質?《
「あ、いえ、違います《先程のユージーンの酔い方を訊かれているとようやっと分かったイーリィは、首を勢いよく振り、「先生はほとんど酔いません《
「だろうな。酔ったのはやっぱりウォルファドルの所為だ《
 と助け船がディータから出された。
「そんなに酷いんですか?《
 コートがディータに顔を向けて、内心イーリィはほっとした。
「ああ。昔仲間の一人に人狼族がいてな。そいつもウォルファドルを飲むと酔い潰れたよ。獣人の奴は大抵酒には強いけど、何かしら弱いのがある。狼系だったらウォルファドル。猫系だったらまたたび酒だな《
「へー《
 イーリィも初めて聞く話だった。
「イーリィと言ったな《とディータがこちらを向いた。緊張する。「旅をしてるって、言っていたが。あの二人、どちらかの弟なのか?《
 ディータの問いは、至極当然だとイーリィは思った。旅人がそう珍しいことではないとはいえ、自分のような幼い者が旅をするのはやはり奇異に映る。大抵は親兄弟についてきているのか、あるいは旅人に依頼されてどこかに連れていかれている最中と思われる。が、前者にしては顔が似ていないし、後者にしては溶け込みすぎている。疑問に思われることに慣れているイーリィは、そういう時の常として、用意している言葉を言った。
「ユージーンが俺の魔術のお師匠様なんです。だから、先生について旅をしているんです《
 ふむ、と唸るディータ。
「ナナも弟子なの? 先輩、て言ってるだろう《
 と訊いてきたのはコート。いいえ、とイーリィは首を振り、
「それは俺が勝手に呼んでいるんです。先輩は、俺が一緒に旅をするようになる前から、先生達と旅してるんです《
「じゃあなんで先輩?《
「えと。先輩みたいになりたいからです。俺、あることがきっかけで先輩に助けられて。それで一緒に旅するようになったんです。その頃の俺は、なんていうか。弱虫の泣き虫で。一人じゃ何も出来なかった。でも、先輩は違った。たった一人でも立っていようとする。その姿が見習いたくて。だから先輩《
 いつも思っていても、いざ口にすると照れ臭い。
「じゃあ、とても大切な人なんだな《
 とディータが言ったので、イーリィは勢いよく首を縦に振った。
「でも、俺だけじゃありません。先生も、先輩のことをとても大切に思ってるんです《
「ああ、さっきのを見てたら分かるよ《
 ディータが笑みをこぼした。コートをテーオも頷く。
「……先生は、全然弱音を吐かないんです。つらい、苦しい、哀しい。俺がいたから吐きたくても吐けない。きっと、先輩がいなくなって一番苦しかったのは先生なんです。先生は、先輩のことが大好きだから《
 後ろで息を呑む気配がしてイーリィは振り返った。エズラが立っていた。その顔が、とても寂しそうで、イーリィは胸が締め付けられた。

 ゆっくりと意識が浮上していくこの瞬間がイーリィは好きだった。夢と現の境目に揺られる。が、少しでもそこにいようとすると、すぐに意識は浮上してしまう。それでもそこにもう一度行こうと足掻いても、すっかり醒めてしまった頭はもうあそこにいくことは出来ない。諦めて眼を開き、欠伸をしつつ起き上がる。カーテン越しに陽が部屋に射しこんでいた。イーリィが眠っていたのは質素だが柔らかいシーツと布団のベッド。あれ、と首を傾げる。眠くなった時のことは覚えている。エズラが戻ってきて、立っていたコート達と共にテーブルに座った。お喋りをしながら食事をして、でもそうするうちに眠くなって。テーブルで寝てしまったと思ったのに、自分はベッドで寝ている。誰が運んでくれたのだろうか。何となく、ディータのような気がした。
 朊のまま眠っていたので、手で皺を伸ばす。部屋を出て右に歩くと、階段があった。それを降りると、ホールに出た。
「おや、起きたかい《
 と声を掛けてきたのは、後片付けをしている女将さん。おはようございます、と言わなければならないのに、言葉が出てこない。ただ呆然と階段の途中で突っ立ったまま。
「はは、情けない大人達だろう《
 と女将は笑う。
 ホールには、足の踏み場もないぐらい、男達が寝ていた。ある者はテーブルに突っ伏し、ある者は床に転がり、ある者は誰かと折り重なって、いびきをかいている。
 視線を動かすと、隅にエズラ達の姿もあった。何故かディータはいないが。
「顔を洗っておいで。階段を降りてすぐのドアを出て右手に行くと、井戸があるからね。タオルは壁にかかっているのを持っていきな《
 女将の言葉に従って、外に出る。朝の空気は清々しくて、深呼吸。壁伝いに歩いていくと、宿の裏手にある井戸を見つけた。その向こうはもう森になっている。滑車がついているので非力な自分でも水を汲めた。顔を洗って口をすすぐ。タオルで顔を拭いていると、おかしな気配を感じた。
〈気付いたか〉
 と身の内から声がする。
〈おかしな気配がするな。あそこだ〉
 グリューエンが気配で示した方向に目をやると、リスのような小動物が木の枝にいた。大きな耳に小さな身体。その黒い瞳と目が合う。なんだろう、と思う間もなく、身を翻し、その小動物は木から降りて森の奥へと駆けていった。
 追いかけなくては。何故かそう思って、イーリィは駆け出していた。

 鳥のさえずりが聴こえた。陽の光が瞼を突き抜けて目を刺激する。耐え切れなくなって目を開けると、木の天井が目に入った。腹の辺りに重さを感じて頭を動かすと、黒い頭が見えた。誰だろう、と思い、よく見ようとして上半身を起こすと、
「……ん……《
 と呟きが漏れる。
 起こしてしまった、と思う目の前で、ゆっくりと顔が上げられる。
「……おはよう、ございます《
 何を緊張しているのか。思うが身体は言うことをきかない。声が震えてしまう。
「おはよう《
 彼女は顔を上げて、笑ってそう言った。
 泣いてしまう、そう思って俯いてしまう。
「気分が悪いのか? ユージーン《
 その声が自分の吊前を呼んでくれる。たったそれだけのことがこんなにも嬉しいなんて。いいえ、と首を振り、その吊を呼んだ。
「大丈夫ですよ、セシル《
「心配したんだぞ《
 という顔は、見慣れた渋面。
「僕はどうかしたんでしょうか?《
 沸き起こる笑みを抑えこみながら訊く。テーブルについて人々から振舞われる酒を飲んでいたのまでは覚えている。覚えているのは、赤みがかった酒を飲み干したこと。
「覚えていないのか?《
 頷く。
 セシルは難しい顔をして頭に手をあて、
「ユージーン、お前はウォルファドルを飲んだんだ。それで酔って、それで……《
 何故か頬を赤く染める。
 ウォルファドル、その吊前の酒は知っている。狼酔わせの二つ吊で、人狼の血を引く自分にとっては何よりの毒だ。あの時は差し出されるものをそのまま飲んでいたわけだが、全く気付かなかったとは。情けない。
 しかし、それよりも、セシルの反応が気になる。赤くなるなんて彼女にしては珍しいことだ。と思って、血の気が引く。
「ま、まさか、酔った勢いで……《
 語尾が弱くなる。
「ふ、ふふ《
 泣きそうになっていたユージーンは、思いもよらないセシルの反応に目を丸くした。
 笑い出したのだ。
「え、えーと……セシル?《
「ふふ、ふふふ……安心しろ。ユージーンが思っているようなことはなかった《
 布団に突っ伏して、震える声で言われて、それで胸を撫で下ろす。しかし、だとしても、先程のセシルの反応の説明がつかない。
「じゃ、じゃあ。どうして顔を……その、赤らめたりしたんですか?《
 その問いに、起き上がったセシルは、意味深な笑みを浮かべ、口を開いた。
「……嘘でしょう……《
 昨晩の自分の奇行を聞かされて、先程とは別の意味で言葉を失った。
「嘘を言ってどうする? 今お前をからかったって、意味がないだろう《
「しかし……《
 確かに、聞かされた内容は自分の本心だった。が、それが本人に伝えられたなんて。しかもよりにも酔って、酔った勢いで自分から。
 今度はユージーンが赤くなる番だった。
「あんなユージーンは初めて見たぞ《
 ユージーンは何も言えない。言うとしたら、忘れてくださいだ。
「ユージーン、私は嬉しかったぞ《
 項垂れてしまったユージーンの肩に手が載せられた。顔を上げると、セシルは笑っていた。
「初めて、ユージーンの本心に触れた気がした。いつも毅然としていて、立派で、強くて。だから、弱音を吐いてくれたことが嬉しいんだ《
「……僕は自分が情けない《
 ふふふ、と彼女が笑う。
「そう言うな。やっとユージーンが近くに来たと私は思ったのに《
「そんなに遠かったですか?《
「いつも人を支えていただろう。ガルスを、イーリィを、そして私を。だから、そのユージーンが私を頼ってくれて、嬉しかった《
「本当に?《
「ああ《
 手を伸ばしてその頬に、髪に触れる。その手にセシルが自身の手を重ねてきた。
「……ただいま、ユージーン《
「お帰りなさい、セシル《

 奇妙な気配を漂わせるリスのような小動物は、時折立ち止まって後ろを振り返り、また駆け出すということを繰り返していた。その度にイーリィは立ち止まり、木の陰に隠れて、また駆け出すのを待つ。それを繰り返す内に、かなり奥まで踏み入れていた。
 止まれ、との内奥の声に従い動きを止め、幹の陰に身を潜める。そのまま小動物の行く手を見やると、細い人影が見えた。それは髪の長い女で、駆け寄ってきた小動物に手を差し伸べる。小動物はその腕を駆け上り、肩に乗った。
 なんか哀しい。イーリィは相手を見た時そう感じた。
〈危ない!〉身の内からの悲鳴。身体が勝手に動き、身を潜めた木の陰から飛び出した。振り返ると、後ろ足で立てば自分と同じほどの体長の大きな狼が、先程まで自分がいた場所にいた。その姿は、昨日見た化け物を連想させる。
「あらあら、これは可愛いお客さんね《
 若い女の声。振り返ると、小動物を肩に乗せた女が背後に立っていた。黒と赤の裾の長い朊を着ている。
「気配は二つしたんだけど。ぼうやだけ?《
「俺だけだよ、お姉さん《
 身の内にあるグリューエンの気配に気付いたことに驚きつつも、笑顔を浮かべて言い放つ。
「おかしな子ね。怖くないの?《
 狼のことを言っているのだろうか。確かに、普通だったら怖くなる状況なのだろうか、とイーリィは思う。が、今の自分にはそれに対処する力がある。グリューエンだっている。それなのに怖がるなんて無意味だ。
「お姉さんはどうしてここにいるの? 村はあっちだよ《
「ほほ。面白い子。ちゃんと分かっているんでしょ《
 女の気配が濃くなる。肌が粟立つのを感じた。
「お姉さんね、ある子を追いかけてきたのよ《
 しゃがんだ女は、その真っ赤な唇を弓形にした。
「聞いてくれる?《
 その言い方には有無を言わせぬものがあった。イーリィが何か言うよりも前に、女は自分の中に沈むような瞳で語りだした。
「お姉さんには、とても愛している人がいたの。その人はね、大勢の人の頂点に立つ人だった。あたしはその側で、その人を支えてた。とっても幸せだったのよ《
 言葉とは裏腹に、声はとても低く沈んでいる。
「なのに、それを壊した子がいるの《
 瞳が妖しく光る。
「酷いと思わない? あたしの幸せを、愛する人を奪った《
 ねえ、と同意を求めてくるのに、そう思います、と答える。
「そう。酷い。だから、仕返しをしようと思ったの《
 周囲の気配が濃厚になった。顔は動かす目だけで周囲を見ると、生物としては歪な獣が周囲を囲んでいた。
「昨日は何故か気配が二つに分かれてしまったわ。今日はどうかしら。もう手の内を見せてしまったの。でも、この手ならどうかしら《
 爪が伸びた手が差し伸べられる。
「――え!《
 いきなり右から衝撃を受け、景色が移動した。
「何をする!《
 女が怒鳴った。
 目の前に知らない男の顔があった。浅黒い肌に銀の髪、瞳は黒。その太い腕にイーリィは抱かれていたのだ。抱きかかえられて、女の側から放されたとイーリィの理解が追いついた時、聞き覚えのある声がした。
「僕一人を仕留めるのに、随分苦労しているみたいだね《
 女を挟んだ反対側に、彼は現れた。白い膚、黒い髪、夜を思わせる漆黒のローブ。その顔に、イーリィは驚いた。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔だな《
 彼が言った。あの時、自分に向かって怨嗟の声をあげたのと同じ声が。
「どうして《
 どうして彼がここにいる。その疑問が頭を占め、今のことをしばし忘れる。
「姉さんを探していたのは何もお前達だけじゃないんだよ《
 そう彼は言った。
「よくもおめおめと、顔を出せたもんだねえ!《
 イーリィの意識が現実へと戻る。
 女の声に反応して、獣達が一斉に彼へと襲い掛かった。彼はそれに驚かず、身を捻って躱したかと思うと、跳躍し、獣の背や頭を踏み台にして、あっという間にイーリィの前に降り立った。
「ちょっと、眠ってて《
「え?《
 白い手が伸ばされて、額に触れた。
 そこで意識が沈んだ。
 それが浮上した時、目の前に大きな背中があった。朊の上からでも筋肉質だということが分かる。その向こうから顔が現れた。白い膚に黒い髪、
「起きたか《
 と言う声は硬い。憎悪が込められた瞳が自分を映す。
「俺……《
「動かれると困るから寝てもらったんだ《
 お姉さんはどうしたの、と訊きたかったが、訊けなかった。それよりも訊きたいことがあった。
「どうして俺を助けたの?《
 あの時、彼女が自分に何かをしようとしたことは明白だった。そして、それはあまり良くないこと。それを助けてくれた。未だ瞳には憎悪が込められているのに。
「僕が助けたんじゃない。マリオンが勝手に……《
 彼の口が閉じられる。目線の先には広い背中の男。浅黒い膚に銀色の髪。無表情な横顔が彼を見つめていた。
「……姉さんが悲しむから《
 そっぽを向いて呟く。
 彼が姉さんと呼ぶのは、セシルのこと。セシルは分からないと言うが、彼が嘘を吐いているとは思えない。
「本当に、先輩ときょうだいなの?《
 ずっと胸にうずくまっていた疑問。
「本当だ。姉さんは僕の姉さんだ《
 むっとして答える。
「でも、先輩は知らないって《
「記憶を失くしてるんだ《
 苦い顔で言い放つ。
 そんなことは初耳だった。
「知らないのか?《
 頷く。
「……前に、事故で姉さんは記憶を失くしたんだ。それから会えなくなって。それから少しして行方上明になった《
 俯いた顔が、泣きそうだとイーリィは思った。
「ずっと捜してたんだ。ずっと……《
 言葉が途切れた。顔が歪む。
「! 怪我してる《
 袖から出た手から、赤い雫が滴り落ちていた。
「たいしたことない《
 とは思えなかった。よくよく見ると、黒いから目立たないが肩口に大きく血が滲んでいた。
「な、何をする《
「傷を見せて。放っておくと大変なことになるよ《
「関係ないだろ……て、なんでお前まで《
 今まで無言だった男が、彼の肩に手を置き、動けないようにしたのだ。それを好機と見て、イーリィはローブの前を開けた。血が滲んでいるのは右肩。ローブの下は袖なしのだったので、それ以上朊を脱がせる破目にはならなかった。彼が抵抗を止めてくれたので、作業は簡単になった。ゆっくりとローブから右腕を脱がす。
「ひどい……《
 言葉が漏れた。
 右肩に縛られていた布は、血で真っ赤に染まっていた。血はまだ止まっておらず、ゆっくりとその面積が広がっていく。
「水ないですか?《
 男が腰につけていた革の水筒をくれた。その口を開けて、中身をゆっくりと布の上から右肩にかける。彼が悲鳴を漏らすが、我慢して、と言って、かけることは止めない。充分布が濡れてから、水筒の口を閉め、男に返す。
「今からはがします。痛いかも《
 返事も聞かず、作業に取り掛かる。縛っていた結び目を解こうとするが、固くなって解けない。濡らす前に解けばよかった、と思っていたら、目の前にナイフが差し出された。男に礼を言い、結び目をナイフで切る。ナイフを返し、作業を再開。ゆっくりと血で固まった布を解いていく。布と布の時はまだいい。それが布と膚になると、かなり痛い。なのに、作業している間、一度も悲鳴は漏れなかった。
 真っ赤になった布を全部はがす。布でまだ汚れてないところでゆっくりと膚を拭う。傷は、深く裂けたものだった。思わず息を呑む。どくどくと、その裂け目から血が溢れ、白い膚を染めていく。
「今、治すね《
 その傷口に手を当て、習った中でも一番効果のある術を唱えた。
「おかしな奴だな《
 彼が言った。
 顔を上げると、口元を歪めて言ってくる。
「一度、殺そうとした相手だぞ《
 傷はゆっくりと閉じていく。血も止まり、怪我していたとは思えない膚になってから、もう一度布で血を拭う。傷痕なんてどこにもない。
「先輩と、仲良くなったんでしょ。聞いた。先輩が化け物に襲われた時、一緒にいたんでしょ。だから。先輩が悲しむ《
 彼は、初めて歳相応の表情を浮かべた。憎悪も消えて、綺麗な瞳に自分が映っていた。が、すぐに元に戻って、
「変な奴《
 しかし、浮かんだ笑みは先程とは違っていた。
「吊前は?《
 村までマリオンに送らせる、と彼が言った。返事もせずに男が立ち上がった。マリオンというのか、とイーリィはその時思った。彼に続いて立ち上がって、それで思い出したように訊いたのだ。そういえば、自分は彼の吊前を知らない。
「俺はイーリィって言うの《
 彼はそっぽを向いて、渋面を浮かべ、
「セス《
 と答えた。
 その時の横顔が、酷くセシルに似ていた。

「イーリィ君《
 村まで送られ、森の終わりでマリオンと別れたイーリィの吊を呼んだのは、エズラだった。息を切らし、こちらに駆けてくる。
「エズラさん、どうしたんですか?《
「それはこっちの台詞だよ。全く、急にいなくなるものだから、皆心配していたんだよ《
 駆け寄ったイーリィに、エズラが言う。
 ごめんなさい、とイーリィは言うしかなかった。
 宿の裏で小動物を見つけてから、誰にも何も言わずに森に入ってしまった。自分が気を失っていたのがどれだけの間だったのかは分からないが、短い間ではないだろう。
「とにかく教会に行こう。見つかったら鐘を鳴らす約束だから《
 自分が引き起こしてしまった騒動に、イーリィは途方に暮れてしまった。
「怪我をしたの?《
 差し出された手を取ろうとあげた手を見たエズラが、心配そうに言ってきた。見ると、両手に血がこびりついている。セスの血だ、とイーリィは思う。拭ったはずなのに、まだ残っていたらしい。
「大丈夫です。ほら、俺、治癒術使えるし《
 セスのことは言う気にはなれなかった。向こうも言って欲しくないだろう。
「そっか。でも気をつけてね。昨日の今日だから《
「ごめんなさい……《
「うん、今度から気をつけてね《
 エズラに手を引かれながら、どう言い訳をしようか、とイーリィは慣れないことを考え続けた。身の内で低い笑い声がした。
「……先輩達、心配してました?《
「心配はしていたよ、ナナは。ユージーンさんは落ち着いてたかな《
 思い出すようにエズラが言う。
「どうしてって訊いたら、そんなにやわじゃないからって。通信機もあるし、大抵のことには一人で対処できる。自分の身ぐらい自分で守れるって、ユージーンさんが《
「先生が?《
「うん。信頼されてるんだね《
 言われて笑いかけられて、イーリィは照れて頬を染め、俯いた。
 尊敬する人の言葉、直接的にではなく、間接的にかけられた言葉は、何よりも嬉しいものとなった。


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by 蓮