《Weitergehen》





Weitergehen 第廿四話
わがまま

 ポギー通りは、大鍋亭のあったマス通りから左に二つ目の通りだった。昼間ということもあって、その通りは広場に比べるとやや活気がなかった。今日は市が立つ日で、イーリィはイリスらと一緒にそれに行っている。広場には色々な屋台や出店が立っていて、それで少しはイーリィが元気になるといいとユージーンは思っていた。
 請負ギルド、別名賞金ギルドは、人々からの依頼を請け、それを紹介するギルド。賞金首の取り扱いが主なので、賞金ギルドと言われているのだ。ユージーン達が仕事をする時も、大抵請け負いギルドで賞金首を捜したり、仕事の依頼を受けたりしている。
 ドアを開けると、ギルド特有の薄暗さ、獣油の臭い、紫煙、そして、テーブルに着く男達。どの町のギルドも同じだな、とユージーンは思う。大抵ギルドに入ると、注目を集める。余所者、ということもあるのだが、賞金稼ぎとしては珍しいタイプだからなのだろう、という結論を自分でつけていた。賞金稼ぎは大抵、屈強な男が多い。対して、ユージーンは細身で、そういうイメージの対極にいる。今まではそういうイメージに近いガルスが共にいたのだが、今は一人。だから余計にからかいの対象になってしまう。
「店を間違えたかい? お嬢ちゃん」
「それとも、俺達にお酌をしてくれるっていうのかい?」
 げらげらと男達が笑う。そういうのにいちいち突っかかってても意味がないので、全てを無視して一直線に正面カウンターに向かう。内装は、壁に依頼紹介、賞金首が多く貼られている以外は、どこにでもある酒場である。ただしステージはない。
「何の用だい?」
 カウンターに立っている筋肉質の親父が、近づいてきたユージーンに訊く。さすが長年ここに立っているだけあって、その力量を見抜いたらしく、既に仕事用の顔をしている。無言でエール酒と、チーズを出す。
「なんだいなんだい、親父、とうとう給仕を雇う気になったのかい?」
「そうだ、やっぱりここにも花がなくっちゃいけないね」
 隅で昼間から酒を浴びているらしき男達が笑っていた。それを無視して親父に言った。
「この辺りにいる賞金首を教えてください。出来れば、団体は遠慮したいんですが。急ぎの旅の途中でして」
 カウンターに椅子はない。高さは胸より下。寄りかかると丁度良い。そうしながら、棚に向かった親父が戻ってくるのを、エール酒を口にしながら待った。昨日大鍋亭で飲んだのよりも苦味がきつい。チーズは、味が濃かった。
 戻ってきた親父が、カウンターに分厚いファイルを置いた。羊皮紙に穴を開け、それに革紐を通し、前後に厚手の、革張りの表紙裏表紙をつけただけの簡素な作りだが、大抵のギルドでは、こうやって依頼書や手配書をまとめている。多くの者が閲覧しているので、表紙は手垢がついていた。
「あんたはどれくらいの腕前だ?」
 どんな仕事でも請け負う者に力がなければ話にならない。相手が常連ならギルドの親父がその腕前に応じた依頼を持ってきて紹介してくれるのだが、このように初めての場合は仕方がない。これぐらいだろう、と親父は見当をつけるのだが、一応聞いてくる。見た目で判断しても間違うことが多いのだ。幾ら経験を積んでいたとしてもだ。
 ユージーンは襟元から、首から提げていた親指ほどの金属製のタグを取り出した。それにはユージーンの名前と、穴が幾つか開いている。
「ほう」見せられた親父は声を漏らして、「こんな田舎でお目にかかれるとは思わなかった」と答えた。
 その声が聞こえたのだろう、他の男達が遠巻きにだが、聞き耳を立てているのが分かる。ユージーンは親父が確かめ終わってから、さっさとそれを服の下に隠した。面倒ごとはごめんなのだ。
「だったら、そうだな、この辺りのもんにはちょいと手が出せない山を片してもらおうか」
 親父が開いたのは手配書だった。若い男の似せ絵が描かれ、下に特徴と罪状が細かい文字で描かれている。そして、一番下には賞金の金額。思っていたよりも高いそれに、ユージーンは一人笑んだ。これならまたしばらくお金のことを気にせず旅が出来そうだ。
「そいつをこんな細っこい奴に任せるのかよ。親父、もうろくしたか?」
 酔っ払いが一人、覗き込んできて言った。酒臭い息が顔にかかる。いつまでも慣れない臭いだ。ユージーンは顔をしかめた。
「ああ。さっさと始末しないとな。こっちに流れてきたって噂だ。こういう時にしておかないとな。で、あんたはいいかい?」
「ええ、もちろんですよ。詳しい情報をお願いします」
「けっ、なんだいなんだい。親父は俺達が頼りねえって言うのかよ、こんな余所者、俺達より弱いに決まってんじゃねーか。こんな肉のついてねー身体、あっという間にぺしゃんこだ」
 赤ら顔でそう言ってきた男を、親父は黙殺した。嫌な予感がする、と、その反応を見てユージーンは感じた。こういう、客同士でトラブルがあった時、真っ先に仲裁に入るのが役目のはずなのに。
「なんだよ、俺達にはそんなことも出来ないとでも思ってんのかよ。お前も、なに涼しい顔してんだよ!」
 怒りの矛先が、親父からユージーンに移る。嫌な予感は的中し、いきなり酔っ払いが殴りかかってきた。酔っているからそんなに速くはない。避けたら、そのままの勢いで男は後ろのテーブルに激突した。ジョッキが倒れ、床にエール酒がこぼれる。それが試合の合図になったのだろう。
「入って来た時から気に入らないと思ってたんだよ、俺は」
「そうだ、澄ました顔しやがって」
 などと口々に言いながら、男達が一人二人と立ち上がる。助けを求めるようにユージーンは親父を見るが、黙然と立っているだけ。どうやら、まだ試されているらしい。
「余所見してるんじゃねー」
 男が一人、殴りかかってきた。それを援護するようにいつの間に後ろに回っていたのか、ユージーンよりも一回りもでかい大男が、羽交い絞めにしてくる。前を見ると、もう拳は目と鼻の先。脇を締め、足を上げ、その鼻っ面を靴底で踏みつけた。一瞬全員がぎょっとする。
 すかさず、締めていた脇を緩め、腕を垂直に上げ、大男の腕の間からすり抜け、しゃがみ、そのまま大男に足払いをかける。上からの殺気を感じ、そのまま確かめることなく横に逃げる。今までいた所に、男達が積み重なった。片腕を支点に方向転換。その速さに反応しきれなかった男に左肩でタックル、そのまま回転して、左肘鉄を群がってきたヒゲ面に叩く。勢いを殺さず、右手裏拳を後ろから腕を伸ばしてきた男に浴びせる。がら空きになってしまった正面に、男が一人体当たりしてきたのを迎え撃つ。体勢を低くし、寸前で身体をひねり、男の懐に自身の背を向ける。男を背負う形になったところで、上体を下げ、そして右肩を下げ、そのまま投げる。一度姿勢を低くしてしまっているので、隙が出来てしまう。それを埋めるように左足を軸に回し蹴りを放ち、
「そこまでだ!」
 ユージーンの右足甲は、あと少し止めるのが遅かったら、左頬に傷のある男に炸裂していた。
「それぐらいにしときな」
 止めに入ったのは、カウンター内の親父だった。腕組みをして、威圧感はたっぷりだ。
「だそうです」
 ユージーンは足を下げ、軽く服を調える。
 少しやりすぎたか、と周囲を見回して思う。自身で手を下した男以外にも、それに巻き込まれたりした男もいる。無傷の者は、呆然とユージーンを見ていた。
「ひどいな。僕を試しましたね」
 視線から逃げるようにカウンターに行って、親父に言った。新たに注がれたエール酒を飲む。
「こっちも仕事だ。まあ、これでやりやすくなっただろう」
 言いのけて、片付けねえか、と後ろの男達に怒鳴る。男達が一斉に殺到したので、そのあおりをくってテーブルが動いたり、椅子がひっくり返っていたり、エール酒のコップや、つまみの皿が散乱していたりするのだ。何人かは、勝手知ったるなんとやらで、掃除用具をどこからか持ってきていた。
「あんたは手伝わなくていい」
 カウンターから離れようとしたユージーンを止める。
「でも、ほら、僕もその一因ですし」言い置いて、ユージーンも後片付けに加わる。はじめ渋い顔をしていた男達も、二人がかりでやっと移動させていたテーブルをユージーン一人で動かすのを見て、その表情が変わった。自分がどんな相手に、無謀にも挑もうとしたのかが分かったのだろう。人間、自分よりもいくらか優れている者を相手にすると、妬んだり憎んだりするものだが、自分よりもはるかに上の相手に対しては――よほど自信過剰の者でなければ――結構何の感情も浮かんでこないものである。ちなみに、自分よりも上過ぎて、もうどれぐらい離れているのかが分からないほどだと、敬うか恐れるかのどちらかだろう。
 すっかり店内が片付いてから、またユージーンはカウンターに立った。親父が、呆れているのか、笑っていた。笑うと厳つい雰囲気がいくらか和らぐが、幼い子どもが見たら泣くだろうな、とユージーンは思ってしまう。
「ベルナルド・ダグラス。黒髪、鳶色の瞳。身の丈はだいたい一八〇メータ。痩せ型。毒を塗ったナイフでの戦闘が得意。少し前までは、ここよりも東の方にあった犯罪組織に籍を置いていた暗殺者だったらしくてな。先々月、東の街で、商談に来ていたとある大商人を暗殺してな。それで手配をくらった。まあ、それだけだったらまだ良かったんだがな」
 太い指で、似せ絵を叩く。
「こいつが所属していた犯罪組織が、今内紛状態でな。情報では、組織のトップ陣が殺されたらしい。そんなわけで、今奴は糸が切れた凧状態、何をやるか分からん状態だったのだが、とうとう先日、こいつを取り押さえようとした役人を殺して、加えて目撃者にも被害があった。こっちは人が集まってきたので奴が逃げたために、一命は取り留めたがな」
 似せ絵の男は、真っ直ぐに正面を睨んでいる。多分その生き残った目撃者の証言が加えられているのだろう、その顔は凶悪犯そのもので、まるで悪魔が乗り移っているみたいだ。目撃者の恐怖が、そのまま男の姿をとって表されたみたいだ。
「それが今、この町にいるんですか?」
「いないといいんだが。昨日の夜、隣町から、町外れで、こいつがよく使う毒によって殺された兵士の遺体が発見されたって連絡がきてな。その時分に北の山道に入ったら、だいたい今は頂上付近だろうな。山道はそんなにきついわけではないが、起伏に富んでいて、道が入り組んでいるから、一日かかる。途中崖があって、そこをつなぐ吊橋が半年前に壊れてからは、かなり遠くにある吊橋まで行かないといけなくなったし。まあ、そのぶん人は来ないから、隠れるにはもってこいだ」
 親父がカウンターの下から地図を取り出して広げる。この町はストハロウ、と言って、窪地にある。南東に街道が走り、西には森がある。そして、北には連峰があった。
「山には町の北にある門から一本道がある。脇道はあるが、中央の太い道を行けばすぐだ。迷うことはないだろう。山には獣がいるが、道から外れない限り猛獣の類に出会うことはないだろう。妖精の類も同じだ。魔物の類はいないと報告されている。山道を外れると、滑りやすいところがあるからな。どうだ、いけそうか?」
 半眼で挑むように訊いてくる。
「やります」
 にやりと笑ってユージーンは答えた。親父も、満足そうに笑みを刻んだ。
「何か制限はありますか?」
 書類を準備する親父に尋ねる。
「生死は問う。色々訊きたいことがあるそうだ。これが書類と、手配書の写し、そして一応地図だ」
 書類に目を通しサインして、写しは懐にしまった。それからエール酒を片手に、地図を覚えるのに専念した。後で役に立つかもしれないので、かなり真剣に読み込んだ。
 ギルドを出たのは太陽がかなり傾いてからだった。雑多なものが混ざった臭いからやっと解放されて、ユージーンはやっと一息つけた。そのまま広場に足を向ける。広場に入ってすぐに、いい匂いが鼻腔を刺激する。途端に腹の虫が鳴る。そう言えば、昼前にイーリィが包んでくれたサンドイッチを食べて以来、まともな食事をしていない。エール酒とチーズだけで済ませていては、身体に悪い。
「あ、先生!」
 呼ばれて振り返る。そう自分を呼ぶのは一人しかいない。人込みを縫うようにして、破顔したイーリィが駆け寄ってきた。
「用事は終わったんですか?」
「ええ。貴方はどうでした? 楽しかったですか?」
「はい!」
 イーリィの来た方向から、イリスとハクリタが歩いてくる。
「ありがとうございました」
 頭を下げると、
「いいのよ。あたし達も楽しかったから」
「色々楽しかったです」
 イリスの髪は赤茶で、イーリィの髪は赤毛だ。母子とまではいかなかっただろうけど、姉弟には見られただろうな、とユージーンは思う。
「お腹空いてない? 仕事にはすぐ行かないんでしょう。何か食べましょうよ。色々美味しそうなものがあったわよ」
 返事も聞かずに、踵を返して歩き出す。三人は顔を見合わせて、笑いあい、その後をついていった。

「あー、もう食べれませんね」
 カウチに腰掛けて、ユージーンは腹をさすりながら言った。イリスについて出店を幾つも回り、色々なものを食べ歩いた。少量ずつ買い、それを分け合ったのだが、それでもかなりの量を食べた。その後で、イリスがデザート類を食べたのには、ユージーンもイーリィも驚いた。そんな二人に、別腹なの、とイリスは笑った。
「先生、仕事は見つかったんですか?」
 ベッドに腰掛けたイーリィが訊いてくる。
「まあ、一つ。明日朝から出かけます。一日がかりになるでしょうから、もう二泊ぐらいここにいることになりますね」
 既に手続きは済ませてある。
「あの」
「イーリィはお留守番していてくださいね。今回の相手は結構厄介みたいなんで」
「あのっ」
 イーリィが立ち上がり、ユージーンの目の前に立った。両腕が軽く曲げられ、拳が固められている。
「どうしました? 苦しいんですか?」
 あれだけ食べたら、少しは苦しくなるものだ。
 違います、と口にする代わりに頭を振り、
「俺も、連れて行ってください」
「出来ません」
 にべもなく言い切る。イーリィは瞳を大きく真ん丸にして、震える声で問うた。
「どうして、今までは」
「今までとは違うんですよ。今までのようなごろつきや、山賊の類ではない。今回の相手は特別な訓練を受けた暗殺者なんです」
 イーリィの表情が強張った。
「自分だけで手一杯になってしまうかもしれない。だから、貴方にはここにいて欲しい。これは僕の我儘なんです」
 こういう言い方をする自分はズルイ、そうユージーンは思う。思うが、どうしてもイーリィには安全な場所にいて欲しかった。もう、二度と同じ思いをしたくないから。
 項垂れてしまったイーリィを見て、少しだけ心が痛む。ずるいことを言ってしまった罰だと思って甘受する。
「嫌です」
 大きな声ではないがはっきりと、明確な返事が返ってきて、そして、それが自分が思っていたのと真逆の答えで、ユージーンはしばし言葉を失った。その隙を突くように、イーリィが言葉を重ねてくる。
「嫌です。宿でお留守番なんて嫌です。俺も一緒に先生と行きたい。わがままだけど、行きたいんです。もう、あんな思いは嫌です。助けられたかもしれないのに、何もしないで失ってしまうのは嫌なんです」
 正面を向いたイーリィは、泣いてはいなかった。ただ真っ直ぐに、真摯な瞳で見つめてくる。
 ああ、自分と同じなのだ。ユージーンはその瞳から目を逸らさぬまま思った。自分と同じ思いを抱えている。自分が不甲斐ないばかりに失ってしまったもの。もう失うまいと思う。イーリィの願いを否定することは、自分を否定することにならないか?
「それに、山だったら俺の得意分野です。足手まといになりません」
 もう、自分が何を言っても駄目だろう。そう思ったユージーンは、何故かすごく嬉しかった。いつも一歩後ろに控えるようにいたイーリィが、前に出てきたのが嬉しかったのだ。
「俺、先生が反対しても付いていきます」
 考えなくても、答えは分かりきっていた。
「明日は早いですから、もう寝ましょうか」
 それを聞いて、はじめイーリィは不思議そうな顔をした。自分が考えていた答えを違っていたからだろう。でも、すぐにその本意を悟って、
「はいっ」
 やっと笑ってくれた。
 服を脱いで、寝巻き代わりの軽装になって、イーリィは意気揚々とベッドに潜りこんだ。ユージーンも軽装になって、ランプの明かりを消し、カウチに横になろうとする。
「先生」とイーリィが声を掛けてきた。
「わがまま言ってごめんなさい」
 そして、おやすみなさい、と言って、掛布に潜る音がした。
 自然笑みがこぼれて、そのままユージーンも掛布を引き上げ、久し振りに幸せな気分で眠りにつけた。
 眠りの中、イーリィは昼間の夢を見た。イリスとハクリタに挟まれ、市を見て回っていた。興奮気味のイーリィに、イリスが言う。
「ユージーンは変わったわ」
 イリスが赤色の飲み物を飲みながら言った。いつのまにか自分の手の中にも、青色の飲み物があった。
「昔はもっと暗かった。表情だって、作り物じみてたのに」
 青色の飲み物は、爽やかな味がした。
「前にあった時、本当の表情を初めて見た気がしたわ。今もそう。本当に悲しそう」
 形のよい眉が歪む。
「だからイーリィ、貴方にお願いがあるの」
 イリスの両手が空いていた。それが自分の肩を掴む。
「ユージーンを守ってあげて」
「俺の方が先生よりも弱いですよ」
 イリスの要求に、イーリィは首を傾げる。
「確かにそうかもしれないけれど。でもね、たった一人で戦うのは、とても苦しいことなのよ。だから、貴方が支えてあげて。戦うことじゃなくてね。貴方にしか出来ないの。苦しいかもしれないけれど、でも、貴方になら出来ると思っているから」
 その願いは重い。自分には支えるのは難しいかもしれない。そう思っても、やらなくちゃいけないんだ、という思いが、イーリィの足を踏ん張らせた。
「俺、やります」
 その答えに、イリスは満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 イーリィは目を疑った。手で目を擦る。それでも、その姿は変わらない。
「……先輩」
 目の前で微笑んでいるのは、セシルだった。ありがとう、と言葉を繰り返す。
「ありがとう」
 そこで、イーリィの目は覚めた。

 山は緑が鬱蒼と茂っていた。これからますますこの緑は濃くなっていくだろう。季節は春を過ぎ、花の季節も過ぎ、これからは緑の季節だ。山道はやや急で、整備されたものではなく、長年踏み固められてきた為に出来た道みたいだった。それを上っていく。
 二人とも一言も言葉を発しない。
 別にお互いが不機嫌なわけではない。下手に声を出して相手、つまりはベルナルドに気付かれないためである。よく人の通る道であれば、何気ない会話を交わして相手を油断させることもあるが、こうも人気がないと逆に自分がここにいると相手に知らせるだけで、ほとんど益がない。ただ黙々と山道を上っていく。
 かさり、とどこかで音がして、思わずイーリィはそちらを見てしまう。茂みの中から小動物が顔を出し、あさっての方向へと駆けていった。
《では、この辺りで》
 正面を向いたイーリィに、一言、小さな声でユージーンが言った。いつも使うのではなく、妖精達が使う言葉で。これならベルナルドも分からないだろう。この言葉は、知らないものが聞けば森で聞こえる音――風の音、葉擦れなどに聞こえるのだ。
 しかし、用心してイーリィは頷くだけに止め、近場の茂みに身を隠した。すぐにユージーンの足音が遠ざかっていく。
 これは事前に打ち合わせていたこと。奥はベルナルドが潜んでいる可能性が高い、だから、その手前でイーリィは茂みに隠れる。そして、通信機を介して、森の状態を探る役目を担うのだ。山や森は容易にものを映し、姿を、空気を変える。どこかでベルナルドが何かを行えば、水面の波紋のように現れることだろう。人の身には分からないものでも、森で育ち、竜眼を持つイーリィにはそれを見ることが可能だろう。だろうと断定できないのは、それを感じたことはあったが、自ら感じようとしたことはなかったからだ。
 まあ、なんとかなりますよ、とユージーンはあっさりを言ってきた。昔では考えられなかったが、イーリィも何とかなるだろうと思ってしまった。悲観的だったのに、どんどん楽観的になっていく。いい変化だ、ととりあえずは思っておく。
 森に変化はまだ見られない。まだ、大丈夫と言うことだろうか。茂みの中、いつでも飛び出せる状態で、イーリィは神経を研ぎ澄ました。

 その山は、確かに傾斜はそうきつくないものだった。こういう町に近い森や山は、たいてい野放しにはされず、程よく人の手が入っている。つまり、伐採され、下草が刈られる。そうしないと、森や山自体が不健康になってしまうのだ。
 イーリィと別れたのはストハロウ側を半分ほど上ったところだ。太陽はまだ頭上にはない。最大の難関となる崖は頂上付近にあるそうで、それはまだ見えない。つり橋が落ちてからというもの、こちら側に来るためには、崖伝いに歩いて、崖の下に降りることが出来るところまで行く。そこで崖下に流れる川を渡り、また崖を上る。慣れた大人の脚でも、そこに行くだけで二時間はかかる。加えて降りるのにも時間はかかるし、登るのにもそうだ。川にはもちろん橋はなく、飛び石のようにある岩を飛び移るような形になるらしい。行くのにも、渡るのにも時間がかかる。崩れた吊り橋から直接つながる道がないのも時間がかかる理由だ。しかし、それを利用するしかこちら側に来る手段はない。もしかしたら逆方向に行ってしまったかも知れず、そうなると、渡れそうなところにはかなりの時間歩かなくてはならない。しかし、ユージーンは相手が迷わず正しい方向に歩いたことを確信していた。利用者が少なくなったとはいえ、まだこの道を使ってストハロウに来る者はいるし、向こう側に行く者もいる。そういう者が渡れるところに行った跡が残っているだろう。それを相手が見逃すわけがない。悪路でも普通の道と変わらない速さで行動できるであろうし、かかる時間は短いだろう。
 ユージーンはあえて道を使って吊り橋へと向かっていた。道からつかず離れず、隠れて進むことも出来るが、それだと余計相手を刺激しかねない。それに、隠れたとしても、相手の方が一枚上手、障害物の多い所を移動するより、いくらか危険だが、見通しのいいほうを選んだのである。
 遠くから水の音が聞こえてきた。崖が近付いているのだろう。より一層周囲に気を配る。何処に何が潜んでいるか分からないのだから。
 何事もなく、吊り橋に来ることができた。誘われているな、と思いつつ、慎重にそれに近付く。残っていたのは二本の柱、そこにつながれる鎖、残った橋板。中途半端に鎖に繋がれ、下がっている。遠く、正面にも似たようなものがあった。そそり立つ柱はまだまだ現役だ。一体何があったのか。
 不意に背後で茂みが音をたて、身を翻す。手配書の男はおらず、猪が一頭、茂みから顔を出していた。その黒い瞳がユージーンを捉え、何を思ったか、いきなり突進してきた。後ろは崖、下がるわけにも行かない。左右どちらかに逃げようとしても、下手に動くとすぐにそれに応じて向かってくることになるだろう。出来るだけ引きつけて、直前で躱したほうがいいだろう。そう判断して、その動きに注意を払う。が、ユージーンの目は別のものを捉えて、大きくなった。
「――!」
 目の前が真っ白になり、耳をつんざくような爆音が至近距離からした。音源は猪、その腹に巻かれた何か。多分、爆発系の呪符だろう。近くに自分以外の別の体温があると爆発する。あるいはどこかで見ていて操作したのかもしれない。しかし、そんなことを思っていてももう遅い。気付かなければ遅いのだ。

「――!」
 急激に走ったその衝撃に、イーリィは顔を上げた。と同時に、遠くから爆発音が響く。見つかることも考えずに、転がるように茂みから飛び出して音のした方向、ユージーンの行った先に駆け出した。鼓動が下手なダンスを踊りだす。駆けているためではない。息が上がるが、体温は急激に下がったように感じた。もう頭の中はぐちゃぐちゃで、言葉が出てこない。ただ、一心に呼んでいた。声にならずに呼んでいた。
 先生、
 と。



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by 蓮