| 《Weitergehen》 |
| Weitergehen 第三十五話 父 |
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母さんは、子どもの俺から見てもきれいない人だった。 長い銀髪。空に浮かぶ月のような金色の瞳。目の下にある、鼻を横断した真っ直ぐ横に長い傷痕も、母さんの雰囲気によく合っていた。笑うことは少ない人。いつも落ち着いた、静かな気配をまとった人だった。 俺は母さんが大好きで、いつも外で花を摘んだりしてあげていた。母さんはいつもそれを見て、俺にしか分からない笑顔を浮かべてくれるんだ。 外では辛いことが沢山あったけど、母さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しかったんだ。一緒に畑仕事をして、ご飯を作って、一緒に食べて。そして、夜は同じ部屋で眠る。それだけで俺は充分だったけど。母さんはどうだったんだろう。 父さんには会ったことはない。母さんはとてもいい人だったと言うけれど、だったらどうして俺達と一緒にいないんだろう。俺は母さんさえいてくれさえすれば幸せだけど。でも、母さんはそうじゃないと思うんだ。子どもには分からないことが沢山ある。 俺は早く大人になって、そして母さんを守りたいと思っていた。ずっと、ずっと。 そしていつか母さんのために父さんを見つけるんだ、そう思っていた。 でも今は、そうじゃない。父さんを見つけて、俺達が、母さんがどれだけ苦しんだかを教えてやるんだ。 どうして父さんは、俺達を捨てたんだ。母さんは最後まで、あんたを愛していたっていうのに。 夜風は収まることを知らなかった。二人の長い髪が風にもてあそばれる。 ユージーンは乱暴に前髪を払って、正面から挑むように女王を睨んだ。その鋭い視線を、女王は平然と受け止めている。これが女王の器なのだろうか。 「貴女は何者なんですか?」 無意識に声が厳しいものになる。 「何を知っているというのですか?」 平常心。それを心で唱え続けるが、鼓動は早まるばかりだ。 「私が女王になったのは意外にも最近のことなんですよ」 答えになっていない答えに、ユージーンは叫びたくなるのを堪えた。 「アナスタシアがおりますでしょう」 自分達の世話係をしてくれている幼い少女の顔が浮かぶ。 「あの子はこの里でも特に若い子なんです。やっと二十歳を越えたくらいですか」 長命のエルフから見れば、五十歳以下はまだ子供の内だ。 「エルフは、誰かが亡くなると自然に里の中でカップルが出来て、子を生します。カップルはそのまま自然に消滅して、生まれた子どもは里のみんなで育てることになります。そしてまた、生まれた子どもは、亡くなった者の生まれ変わりとも考えられます。あの子はこの里の先代の王の生まれ変わりと考えられています。私はその跡を継いで女王となりました」 ということは、まだ女王の座に就いて日が浅いということなのだろう。エルフの里の長は、年功序列で就くというわけではないことは知っていた。その人柄や能力などで選ばれる。意外とエルフは能力重視だ。 「女王になる前の私は、ここを出て旅した時期があったのです。まだ若くて、このような閉ざされた世界にいるのが嫌で、世界を知りたくて外に飛び出した。もともとこの里は他の里よりもいくらか外に開いているほうだったので、許されたという面がありました。そうして長いこと、外のことを敏感に知ることのできない里に、外の風を送るのが私の役目となりました。その旅先で出会ったのが、貴方のご両親でした」 女王は、ゆっくりと語りだした。 「先ほど申したように、エルフ同士がカップルになるのは誰かが亡くなった時でした。でも、最近ではそうでない場合も結構あるのですよ。特に他の種族の方との間とか、里を出た方とか。そういう方達は、何にも縛られることなく恋に落ちるということが多くあるのです。私が出会ったのもそういう方達でした。 エルフと妖狼族の恋人同士。私は恋というものは知らなかったけれど、二人を見ているととても羨ましいと思ったものです。私から見れば二人はまだまだ若くて、子どもで。でも、お互いを思い会う姿はとても素晴らしいものでした。 ただ心配だったのが、エルフの青年が私のように里の許しを得て外に出たのではないということでした。私のように外に出ようと思い立ったのは同じでしたが、青年の里はまだまだ保守的で、若者が外に出ることを極度に嫌っていたそうです。そのことが、私を不安にさせました。 今でこそ全体的にかなりリベラルになってきましたが、それでもまだまだ保守的なエルフは多いのです。エルフは人に比べて長い寿命を有しているかわりに、変化をとても嫌います。その思いが若者を里に縛り付けるのです。青年が語った里の様子は、まさに保守的なエルフの里そのものでした。 青年も少女も、共に腕の立つ二人で、また、自分達の力に驕ることなく、とても慎重に旅しておりました。少しでも里の追っ手に気取られることないように。 ――でも」 女王が言葉を切った。次に続く言葉は、容易に想像がついた。 「結局追っ手が二人を追い詰めたのです」 今迄で一番強い風が吹いた。 「私が二人と別れたのは、まだ追っ手の影さえない時でした。別れた時、二人は幸せそうに笑っていました。 でも、次に会った時、青年一人だけになっていました。私は里の使いで、あるエルフの里へと来ていました。その里で青年と再会したのです。再会した時、青年はとても憔悴していて、とても見ていられませんでした。少女のことを問うと、青年は静かに語りました。 少女の体調が崩れてしまい、珍しく一つの町に留まることになったこと。そしてそのために里の追っ手に発見されてしまったこと。何とか二人はそれを躱して逃げようとしたのですが、無理だったこと。それを感じ取ったのか、ある朝目覚めると、少女が姿を消していたことを」 女王が、一瞬目を伏せた。 「結局青年は里に戻されて、そのまま牢へと入れられました。里の掟を破った罪で。外のことを知っているエルフは、里にとっては諸刃の剣だということも影響していたでしょうが。外のことを知るためには、外で長い期間過ごした者の意見はとても貴重になります。昔と比べて、エルフの優位性が崩れがちな昨今、外と対等に渡り合うためには、あるいは、足をすくわれないためには、必要なことになります。しかし、逆に外の新しい風は、里の若者の目を外に向ける追い風になります。若い者が里を離れることは、里にとっては大きな損失にもなりますから。 当時、私はすでに女王候補となっていましたから、罪人である青年との面会も許されることになりました。この里の力が、相手の里よりも大きかったことも影響していました。 私は自分の里に帰ると、すぐに八方手を尽くして少女の行方を捜しました。体調を崩していたと言っていたので、きっとどこかの施療院によったりしているだろうと見当をつけて。女王になってからも、私は仕事の合間を縫って、少女を捜し続けました。この里は外から職人や商人などが多数立ち寄ります。彼らにも頼んで、少女を捜したのです。少女は生粋の妖狼族で、鼻を横断して目の下に真っ直ぐ水平な傷痕があったのがよき特徴になり、徐々に情報が入るようになりました。そうなってから、今度は青年を自由にするための交渉を相手の里と始めました。 やっと彼が里を追放されるという形で自由になったのは、すでに二人の別離から八年ほどの歳月が経っていました。私達エルフにとってはあっという間の間です。でも、青年にとっては何よりも長い間だったのでしょう。この里に来た時の青年は、再会した時よりも更に頬がこけ、髪は艶を失い、生きているのが不思議なくらいでした。それでも、私が少女の居場所が分かるかもしれないと言うと、瞳に光が宿り、大粒の涙を流したのです。 私は彼が養生できるように指示をするとともに、少女の居場所を捜し続けました。そしてやっと、ある土地で彼女に似ている女性が暮らしていることを突き止めたのです。しかも、幼い息子とともに。それを聞いた時の青年の表情。頬は薔薇色に染まり、瞳は太陽のように輝きました。大粒の涙を流し、私の手を取って何度も、何度もありがとうと言いました。 幼い息子が、ちょうど青年と少女が別れた頃に生まれたぐらいの年頃であること、その外見がエルフに似ているということから、きっとそれ青年の子どもであろうと私達は思いました。それだったら体調が崩れたことも納得がいきます。妖狼族は滅多に病気に罹りません。それなのに崩れたということは、きっとその時彼女のお腹には新しい命が宿っていたのでしょう。身重の身では、里の追っ手を躱すことは出来ません。青年一人だけでも逃げてほしい、そう思って彼女が姿を消したのだとも考えられます。 青年は、すぐに自分の妻と息子の元へ駆けつけようとしました。しかし、まだ彼は長旅に耐えられるだけの体力を回復していませんでした。なんとか彼を説得して、とりあえず里の者を使いに出しました。青年の手紙を携えさせて。 でも、手紙が少女に届くことはありませんでした」 女王の瞳から、一粒の涙が流れ落ちた。 「使いが里に出した報告で、私達は少女の村が人狩りにあったことを知ったのです」 人狩り。人身売買のために、人を狩ること。特に、外見的特徴を持つ亜人や人間以外の種族が狙われる。鳥の羽があるもの、獣の耳が、尾があるもの、魚の尾があるもの、少しでも他のものと混ざった外見を持つものをコレクションすることで悦楽に浸る悪趣味な奴ら。彼等は自分達の趣味物を手に入れるためには金塊を積む、それを目当てに行われるのが、人狩りだ。 「ほとんどの村人が殺され、あるいは連れて行かれた。その報告を青年に伝えようかと思い悩みました。少女もその息子の生死も、その時点ではまだ明らかになっていませんでした」 「教えたんですか?」 「いいえ、知られたのです」 女王は、首を横に一往復させて答えた。 「彼は、すでに幾つかの術を使えるまでに回復していました。そしてまた、彼はかなり腕の立つ術士だったのです。精霊を使って私のことを視ていた彼は、村を襲った悲劇を知ってしまいました。すぐにそこに連れて行ってくれ、と叫びながら私の執務室に入ってきた時の、その必死な形相が今でも瞼にこびりついて離れません。私は反対することも出来ず、彼を送り出しました。本当は私もついていきたかったのですが、女王が私事で里を離れるわけにはいきません。結局、私の影をつけることになりました」 「影?」 「影武者ではありません。私と意識を共有している自動人形のことです。もちろん自律型ですが、まあ、分身みたいなものですね。里の入り口で会いましたでしょう」 言われて、入り口であった門番を思い出す。 「影を青年につけました。影を通して、私は全てを視ていました。村に着いて、名を呼びながら彼女を捜す彼の姿を。目を逸らしたくなるほどに、必死な彼を。そして、生き残った人達から聞いた話。遺体が見つかった母親と、行方知れずの息子の話。遺体安置所でやっと彼女と対面した彼は、声をあげて泣きました。 彼はすぐに息子の姿を捜しました、しかしすぐに人狩りの馬車が谷に落ちて炎上した話を聞いたのです。馬車には、まだ年端もいかない子どもばかりが乗せられていて、その馬車に息子が乗せられたのを目撃していた人がいて。それが、彼が知った自分の、まだ見ぬ息子の最期でした。 遺体がそれ以上痛まないよう処置をして、彼は彼女とこの里に戻ってきました。その姿に、里の誰もが息を呑みました。 誰も入らないで、そう言って、彼は自分の使っていた部屋で彼女と過ごしました。一日が過ぎて、食事を運んできた侍女がそれを発見しました。彼女の遺体に覆いかぶさって息を引き取っていた彼の姿を」 「……自殺、なんですか?」 「いいえ。彼はその絶望によって息を引き取ったのです。 エルフはほとんど病に罹りません。老衰もしません。死ぬのは、怪我を負った時と、そして、絶望して生きる意志を失った時です。彼が亡くなったのはその絶望のためです。愛する人を失った悲しみが、彼から生きる力を奪ったのです。 それから私は彼と彼女をこの墓地に丁重に埋葬しました。それぐらいしか、私には出来ることがなかったのです」 双眸を閉じた。また、涙が頬を伝う。 「それからいくらか年月が流れ、私は風の噂で貴方のことを知りました。ご存じないかもしれませんが、貴方方はかなり有名なのですよ」 「知っています。有名なのは、僕ではなくガルスのほうでしょう」 女王は頷いた。 「ユージーンという名も、知っていました。息子がいたこととともにその名を告げると、彼は間違いなく自分の息子だ、と言ったのです。まだ外見のエルフのような特徴や、年齢を言う前にですよ。そして、飛び上がらんばかりに喜びました。ユージーンという名は、もし自分達に子どもが出来た時にはつけようと二人で決めていた名だと、彼は嬉しそうに教えてくれました。男ならユージーン、女ならユージニア。それを覚えていてくれたのだと、彼は喜んでいました。 貴方のことを知った時、悪いとは思いましたが、調べさせてもらいました。そして――」 「知ったのですね」 沈黙が落ちた。 昔を思い出した。人狩りに襲われ、自分の前で刺された母親の後ろ姿。最後まで逃げろと叫び続けた母の、その上に突き立てられた赤い刃。自分の手を取る男達の姿。 「どうして貴方が生き残ったのか分かりませんでしたが、それでも、貴方の存在は私には喜びでした。とても嬉しかった」 「その馬車に乗らなかったんです。もういっぱいで乗れなかった。だから、僕は別の、男達を乗せた馬車に乗せられた。それで助かった」 昔を思い出すことは半分半分だ。嬉しいこと半分、悲しいこと半分。 「すぐにでも貴方をここに連れてこさせたかった。でも、迷いもあった。貴方が父親を恨んでいるかもしれないからと」 「恨んでいました。ずっと、今でも。父は自分を捨てた人。いえ、自分はいい。父は、母を捨てた。どこの子とも知れぬ僕を育てるために、母は他の母親よりも多くの苦しみを背負って生きていた。それなのに」 「エルフが死ぬと、その生まれ変わりが里で生まれると、先ほども申しましたね」 女王がまた口を開いた。 「青年は、すでにこの里の者となっていました。だから、彼の生まれ変わりはこの里に生まれる筈でした。でも、青年が亡くなってからも一向にその気配がなかったのです。もしかしたら、彼はエルフの里にはもう生まれたくないのかもしれない、と私は思いました。自分と彼女と、そして愛しい息子との絆を引き裂いたエルフの里には、生まれたくないのかと。あるいは、やっとあちらの世で、親子三人、睦まじく過ごしているため、もうこちらには戻りたくないのかと。 でも、数年後、里に子が生まれたのです。誰も亡くなっていないのに。彼の生まれ変わりだと、私にはすぐに分かりました。 どうしてこれほど遅れてしまったのか。貴方のことを知って、調べていくうちに、丁度子が出来た頃に、貴方が拾われたことを知ったのです。その頃、何か変わったことはありませんでしたか?」 言われて、ユージーンは思い出したくもない記憶を心の底からすくいだした。 やっと、母さんの元にいけるとその時思った。 自らが放った火は、屋敷をくまなく覆い、自分が倒れたところも、後少しで炎に包まれるだろう。身体はすでに言うことをきかず、ゆっくりと、流れる血とともに命が消えていくのを感じた。 後悔はしていない。やっと母の仇を取れたことと、そして、母の元に行けることで、久し振りに嬉しさが心を占めた。一抹の不安は、あちらに行った時、母に叱られるかもしれないということだった。ただ、それだけ。 もうすでに目は霞み、開けていても映すべきものがないのだから、と思い、まぶたを閉じた。遠くから聞こえる悲鳴も、もう耳に届かない。 一体、どれだけの時が過ぎたのか。その変化に、はじめはあちらへと行き始めたのかと思った。周りを包む炎の熱さが和らぎ、その熱とは違う、なんともいえない温かさが自分を包み始めたからだった。そう、まるで、母の腕に抱かれているような。そんな心地良さ。 炎が爆ぜる音が遠くなり、意識もまた遠くなる。その耳元で、はっとするほど近くで、声が聴こえた。自分の名を呼ぶ、優しい声が。 母さんが迎えに来てくれた。 そう思ったが、すぐに違うと分かった。その声は、母にしては低すぎる。それはそう、男の声。 母の声も低かった。が、聞き間違える筈がない。これは母の声ではない。そうと分かると、すぐにこの居心地の良さから逃げ出したくなる。この居心地の良さに満足してしまったら、もう母とは再会できないと思ったのだ。迎えに来るのは母だと思っていたのに。 しかし、どれだけ抵抗しても、この居心地の良さは去ってはくれなかった。むしろ、先程よりも強くなっている。苦しさはない。どんどん気持ちよさが増していく。 もうだめだ。意識を失おうとした時、また耳元で声が聴こえた。 「お前だけでも、生きておくれ」 それは、母のように優しい声だった。 自分にそんな優しい声を掛けてくれる人は、今まで母しかいなかった。 目が醒めると、ユージーンはベッドの上にいた。確かに自分はあの墓地にいた筈なのに。いつのまにか眠ってしまったらしい。女王の術のせいなのか、それとも、あの場のせいなのか。 隣りのベッドでは、イーリィがまだ寝息をたてている。外はまだほの暗い。ユージーンは着たままだった服のしわを手で伸ばしながら、窓の外を眺めた。エルフの里は、人の町と違って森が切り開かれていない。ここ自体が森の一部になっていて、外には幹が間隔を開けて林立している。まだ半分眠りから覚めない頭を掻きながら、何とはなしに下を見たユージーンは、そこに誰かが歩いているのを見つけた。その誰かに目がいったのは、その髪がこの里ではまだ一度も見ていない金だったからだ。 逸る気持ちを抑えて、ユージーンは部屋を出た。 廊下にも、階段にも、広間にも、どこにも誰の影もなくて、まだ夢の続きを見ているのかと錯覚させる。外に出て、先ほど上から見た姿から見当をつけて、幹の林を走り抜ける。 そしてそこに、彼はいた。 こちらの足音に気付いたのか、こちらに振り向いた。 「何か?」 声は涼やかで、その姿は、人でいう処の十にも満たない子ども。利発そうな瞳は緑色で、真っ直ぐにこちらを見ていた。金色の髪が、朝風に揺れて舞う様は、まるで生糸のようだ。 「えと……その……」 追いかけてきたものの、言う言葉を見つけていなかったユージーンは、声を失う。 何も言えず、相手も何も言わない。少しの間だった筈なのに、無限のように思えた時が過ぎた。 「貴方を、私は見たことがあるように思えます」 突然、少年が口を開いて、その時を破った。 「遠い昔。ずっと、ずっと遠い昔、貴方を見た気がします」 まだまだ幼い声で、彼は言う。 「私が生まれるずっと前に。先ほど貴方を初めて見た時、私は生まれて初めて、深い喜びを知りました。今まで経験したことのない喜びです。今も、それを感じています」 頬が、薔薇色に染まる。 「ああ、貴方がユージーンさんなのですね。ずっと、生まれてからずっと、その名が私の中にあったのです。ああ、今分かりました。貴方がユージーンさんなのですね」 嬉しそうに、本当に嬉しそうに彼は笑った。 「やっと伝えられる」 一歩、前に進み出る。 「前の私、生まれる前の私からの伝言です。 ずっと、ずっと貴方を愛していたと。生まれる前からずっと、貴方を愛していたと。貴方と、そして貴方の母親を、私はずっと愛していたと。 そう、私は前の私から伝えてくれと頼まれたのです」 不覚にも、目の前が滲んだ。膝が崩れ折れ、手で顔を覆った。肩が震え、嗚咽が喉から漏れる。 「どうしました? 大丈夫ですか?」 彼の声が震えていた。動揺しているのだ。エルフでも、彼はまだ幼い。人の世に慣れていない彼は、人の心にも疎いのだろう。 大丈夫ですよ、そう言って安心させるのが自分の役目だと分かっていた。でも、出来なかった。 ただ、喉からは嗚咽が漏れるだけ。 今なら分かる。あの時自分をあの業火から守ってくれたのは、父の手だ。 あのまま自分が命を失っていれば、母の元に行くことなく、きっと地獄に落ちていた。母以外の人を信じられなくなっていた自分。無知だったために犯した罪の数々。行くべきは地獄。地獄の筈だったのに、自分が行ったのはあの世ではなくこの世、地獄ではなく天国。それを与えてくれたのが、自分が憎悪すらしていた父親。 自分は確かに愛されていた。父親は確かに自分を愛していた。自分と、母親を。彼は確かに愛していた。僕達を。 愛して。 泣くことだけしか、今の僕には出来なかった。 ずっと、夢があった。幼い頃からの夢。 父と一緒に畑に行き、作物の世話をする。 昼頃になると、母がお弁当を持って畑にやってくる。 「ごはんよ」 と母さんが呼ぶから、俺は父さんに、 「ごはんだよっ」 て叫ぶんだ。 父さんは俺に、 「今日のお昼ご飯はなんだろうな」 と土で汚れた手で顔の汗を拭く。顔が土で汚れて、それがおかしくて笑う。そうしたら父さんは、 「お前の顔も泥で汚れてるぞ」 って笑うんだ。 「早くしないと、母さんだけで食べちゃうぞ」 母さんが言うから、 「分かったよ、今行く」 と二人で叫んで、慌てて駆けつける。 畑の側の、あぜ道で母さんがお弁当を開けている。パンと、チーズ、マッシュポテト。茹で上がったソーセージからは、まだ湯気がたっていた。 「もうお腹ぺこぺこ」 俺が言うと、 「私もペコペコだ」 と父さんがおどけて言う。 その姿に、母さんは明るい声で笑う。 三人で並んで、一緒にお弁当を食べる。母さんの料理は世界一で、それを食べられる僕達は世界一の幸せ者なのだ。 そういう幸せを、噛み締めたかった。 ただそれだけが、望みだった。 それが一部だけ、少しだけ、この時叶ったような気がした。 |