《Weitergehen》





Weitergehen 第三十六話
提案

 緑の峡谷は、北大陸の西方にある深い峡谷のことだ。峡谷といっても、その幅は大きな町がすっぽりと入ってしまうほど広い。最も広いところで約四十キロ、最も狭くても約二十キロだ。最大幅のところを端から端まで歩くなら、平地だとしたら半日ほどかかる距離がある。しかも、生い茂る木々の根や流れる川などがあるので、実際にかかるのはそれの倍ぐらいであろう。その深さは最も深いところで約二キロにも及ぶという。全長は約五百キロ。町はなく、人は住んでいないが、古代遺跡は数多くあった。この峡谷は魔力のバランスがよく、神殿などが多く建てられたのだ。今棲むのは妖精や精霊、獣の類ばかりである。
 峡谷内には町がないが、近くには都市がある。魔術都市ジオン。世界各地にある同様の魔術都市の中でも、最も歴史が古く、また、最も完成され、そして現在でも成長し続ける都市国家である。世界各地から多くの魔術師が集まり、日々最先端の魔術技術が生み出されている。また、魔法学院の総本山や魔術ギルドの本部があるのもこの都市である。
 最先端の技術と、最古の知識が入り混じる、それがジオンである。
 そこに行けと、ファイーナ女王はセシル達に言った。
「ジオンには世界から様々な魔術道具が集まっています。情報も。あそこまで充実しているのは他にはないでしょう。魔法学院の総本山もありますし、ギルドの本部もございます。それに何より、あそこは緑の峡谷に近い」
 それは朝食の席で、食事が終わってこれからのことを話している時だった。女王がこれからどうするのかを訊いてきて、ユージーンがそれに答えた。セシルは一言も発していなかった。とりあえず、別行動をとっている仲間に合流しようと思うとユージーンが答えた後で、女王が提案してきたのだ。ジオンに行ってみないか、と。
「緑の峡谷ですか?」とユージーンが繰り返す。
「ええ。もしかしたら、あの方の力を借りられるかもしれません」
「あの方とは?」
「知恵の竜のお一人、風竜シルフィール様です」
 その名前が出た時、セシルは初めて顔を上げた。
「知恵の竜に?」
 さすがに、ユージーンも女王のその言葉に驚きを隠せない。それはセシルも同じだった。まさかこのようなところで、その名を耳にするとは。
「私が紹介状を書きます。風竜は知恵の竜の中では最も人に近い存在と言えます。昔から、道に迷う者に、道を示してきました」
「しかし、たかが精霊武具を手に入れるただそれだけのために力を貸すなんて」
 セシルは思わず口にした。自分にとっては何よりも大事なことだが、それが誰にでもそうではないことぐらい分かっている。まして、相手は知恵の竜だ。
「いいえ、風の加護を受ける貴女になら、あるいは。それに、風は気紛れなもの、どのような者にもそれは触れることが出来るのです」
 女王の揺るぎない微笑み。その笑みを向けられると、セシルの胸に消えたと思っていた希望の火がまた灯りだした。しかし、それには相反する思いがくっついている。また駄目なのではないか。知恵の竜の力を借りて、それでまた駄目だったら、もう自分は戻れないかもしれない。
「大丈夫です。きっと大丈夫です。必ず、貴女の上に希望の火は灯ります」
 断言する女王。その言葉を、セシルは信じることにした。それだけしかなかった。

 緑の峡谷の東端には、風の山脈と呼ばれる山地がある。中でもその奥、最も高い頂を持つ山は白の尖塔と呼ばれていた。その白の尖塔が、知恵の竜の一人、風竜シルフィールの居城である。
 岩肌を刳り貫くようにして作られている幾つもの部屋の中でも、特に客人を迎えるのに用いられている部屋の一つ。その部屋をドレイクは掃除していた。今朝までこの部屋を利用していた旅人は、すでに朝早くにここを出ている。
 ベッドのシーツを剥ぎ取り、それを無造作に籠に放る。床に敷いていた毛織物の敷物も丸めて、同じく籠に突っ込んだ。
 今、ドレイクは機嫌が良くなかった。
 理由は単純明快である。今朝までいた旅人がどうしても好きになれなかったのだ。
 いや、彼が悪いわけではない。彼自身は、どちらかというと好感が持てる人柄だった。ただ、彼が求めるもの、しようとしていることが過去の思い出を揺さぶって、それが辛くて、機嫌が悪くなってしまったのだ。それを、その旅人は自分の所為だと最後まで思っていた。訂正する機会は幾らでもあったはずなのに、それが出来なかった。
 そんな自分が嫌で、もっと不機嫌になる。堂々巡りの悪循環。それを振り払うように、ドレイクは部屋の片付けに集中する。叩きで上の埃を払い、それから箒で床を掃く。昔と違い、ここに客人が来るのは稀なことだった。いや、尋ね人は来る。だが、それは客ではなく所詮尋ね人。ただ一度の出会い。彼等はドレイクの主に答えを求めてくる。あるいはただ、面会を求めてやってくる。しかし、彼らが真に客として迎えられることはない。故に、主の居城に泊まることなど許されない。大抵がこの住まいよりも下にある山小屋に逗留する。それだって、特に認められた者にしか許されない。
 だから、今回のことは異例中の異例なのだ。
 紹介状もなければ、それ相応の身分もない。本当に突然の訪問だった彼を、ドレイクの主は当たり前のように迎え入れたのだ。その迎えを任されたドレイクは、はじめは信じられなかった。しかし、彼を初めて見た時、その理由が垣間見えた。彼の右目に、遠い昔に見た記憶が重なったのだ。
 片付けを終えた部屋は、急に温かみのない殺風景なものへと変化した。剥き出しの岩の壁。岩を刳り貫いて作った窓の板を今は跳ね上げ、外の風を入れている。ここは風の山脈、始終風が吹いている。この時も、心地いい風が部屋へと吹き込んでいた。
「終わりましたか?」
 部屋を出て、ドアを閉じたところに声を掛けられた。この広い居城にいるのは自分以外には一人しかいない。顔を上げて廊下の奥を見ると、彼の主が立っていた。
 淡い緑色をした長衣を身にまとい、自身の背よりも長い髪を結った若い女性。それが彼の主であり、この居城の主人でもある風竜シルフィールであった。
「はい」
 答えて、ドレイクはその側に参った。
「……まだ機嫌は直りませんか?」
 見透かされていた。ドレイクは自分が恥ずかしくなって、顔を背けた。常にもまして表情を殺していたのに、やはり、この主には敵わない。
「無理もないことだと、私は思っているのですよ」
 主が歩みだしたので、ドレイクは慌ててその後を追う。
「遠い昔の、思い出が揺さぶれてしまう。幾ら年を重ねても、これだけは耐え難い……」
 ドレイクが仕えて数千年。ずっと朝の風のような清澄な風のような雰囲気を持っていた主に、時折陰が差すようになった。いや、以前からそれはあった。ただ、鳴りをひそめていただけ。それを可能にしていた人は、もういない。
「……私は、私は成功するとは思えません」
 客間のある棟と普段使用する棟をつなぐ回廊の入り口で、ドレイクは口を開いた。先を行くシルフィールが、回廊を渡る風に吹かれている。
「私は、成功するとは思えないのです」
 風に負けないように、ドレイクは叫んだ。
「あの人だって失敗したのです。あれだけ力を尽くしたのに、失敗したんですよ。あの男は、あの人よりも力がないというのにどうして成功するでしょうか。私は信じることが出来ない。なのに、どうしてシルフィール様は情けなどかけたのですか。希望など、どうして見せたのです」
 彼の主は、黙って背中で聞いている。
「最後には、絶望しか残されていないというのにっ!」
 自分でも驚いた。最後の言葉は悲鳴となって、白い尖塔の空に響いた。
「……どうして、それが分かりますか?」
 長いこと待った後、シルフィールが口を開いた。
「どうして、我らに未来が分かるのでしょうか」
「しかしっ」
「信じてみましょう。彼が成し遂げてくれることを。私達は信じるしかないのです。それ以外に、何が私達に出来るでしょうか」
 シルフィールがこちらを振り向いた。
「あの日、叶わなかったこと。彼が成し遂げたとしても、それは私達があの時望んだことではないでしょう。でも、そこに救われるものはありませんか?」
「しかし……」
「代替行為と人は嘲るでしょう。しかし、確かにあの時の手順は間違っていなかったのだと。結果はどうあれ、最善のことを尽くしたのだと、そう証明されることだけで、救われる気がしませんか?」
 ドレイクは何も言えない。
「これもまた、自己満足に過ぎないと、頭では分かっているんですけどね」
 ドレイクは笑えない。それは自分にも浮かんだ感情。
「……さあ、仕事は山積みですよ」
 それが話を終わらせる合図だった。ドレイクは、はい、と返事をすると、掃除道具とシーツなどが入った籠を抱えて主の後を追った。


D暦二九九九年 夏
 浮遊島群はこの世に二箇所ある。アトリウムとガーデン。その内アトリウムのほうをさして浮遊島群ということが多い。何故ならアトリウムのほうが、文明が進んでいるからだ。加えて、浮遊島群の基礎となる浮遊石の量も規模もこちらのほうが高い。何より、古代文明の都があったことが、この二つの間に大きな差をつけることになった。
 世界地図を描く時、大抵中央に描かれるのが大央洋である。それは天の支柱と言われるアトラスと、古の楽園と呼ばれるエデンがこの大央洋上にあるからだ。浮遊島群は北半球側にある。ちょうどアトラスの北方。その遠景は、よく絵画のモチーフになるほどの幻想的な風景となっている。海の上空に浮かぶ大小の島々。それぞれからは水が滴り落ち、靄がかかる。そのアトリウムの中央島は意外にも小さい島だ。その小さな島にアトリウム全体を統括する評議会があったりする。その中央島よりも立派で、中央島によく間違われるのが、コスモス本部のある島、メトロポリスだった。
 元々大きかった島に、他の小さな島を引っ張ってきたり、人工島を造ったりしてつなげてきたために、今ではアトリウムで一番大きな島となっている。メトロポリスにはコスモス本部の建物の他に、職員達の住居や、それを目当てにした商店、その住人達。その他様々な施設が林立し、一つの都市国家の様相を呈していた。元々浮遊島群の島は、それぞれの島が独立とした都市国家を形成していることが多い。だが、この島だけはどこの国にも属していない、一企業が所有する唯一の島なのだ。
 コスモスは世界一節操のない会社といわれている。産着から棺桶まで、その取り扱う範囲は広い。そして、このコスモスは、事件処理業者の先駆的存在でもあった。
 事件処理業者。一般にトラブルシューターと呼ばれるこのような業種は世界に星の数ほどある。請負ギルドが個人向けの紹介所であるのに対し、トラブルシューターは一つの会社組織となっているものをさす。そのような形を確立したのがこのコスモスなのである。このようなコスモス傘下のトラブルシューターは、その規模、扱う幅、能力がずば抜けて高かった。ちなみに扱う仕事の幅というと猫探しから、地域間紛争の解決までとなっている。世界各地に設けられたそれらの支部の本部がこのメトロポリスにあるのだが、本部に詰めているのは大抵が支援を主とする部署などで、実働部隊はほとんど置かれていない。が、唯一この本部にしかない部署がある。
 紫晃は、そのメトロポリスに唯一ある課の一員だった。
「やっぱここにおった」
 上から声をかけられて、紫晃は瞑っていた目を開けた。すると目の前に霧亜の顔があった。
「全く、しゃあないね。洸流さんが捜しとったよ」
 眉尻が下がる。その顔が紫晃は好きだった。困っている、呆れている、でもそこには笑みが浮かんでいる。そんな表情。その表情が見たくて、馬鹿なことをしたくなる。ほんとにしたら、逆に眉尻をあげて雷が落ちるのだが。
「俺はちゃんと始末書も報告書も書いたんだけど」
 言いながら、ベンチから起き上がる。
 コスモス本部の中庭。と言っても、その規模は大きい。一歩踏み込めば、まるで森に入ったような錯覚を起こさせる。その奥の赤いベンチが紫晃の昼寝指定席であった。背後に大きな常緑樹があって、木漏れ日が気持ちいい。
「うん、知っとる。でも、捜しとったよ」
「……昨日までずっと働き詰めだったんですけど」
 言いながら、紫晃は渋々立ち上がる。彼女に敵わないことは重々承知しているのだ。
「今度はどこに行っとったん?」
「ん〜……」
 並んで歩く。ただそれだけのことが嬉しい。昔の自分が知ったら、この軟弱振りをどう思うのだろうか。でも、後悔はしていなかった。それが自分のあるべき姿のような、そんな気がしないでもないからだ。
「北の方。寒かった」と、思い出して身震い。
「雪中行軍は辛いものがあったなあ」
「ああ、そりゃ大変やったねえ。北の方やと完全に雪んなって、どんどん沈んではったやろ」
 他愛のない会話。他の日常があまりに殺伐としているから、余計こういう会話に飢えている。心を保つための安定剤。
「翠戒だけはなんでもないように歩いてたけどなあ」
「あの人は特別」
 建物内に入る。はじめてここに踏み入れた時、この廊下や天井が無駄に広くて高いと思った。しかし、すぐにそれが間違いだと気付く。自分を基準にしたことによる間違い。人のサイズの自分には無駄に広くてでかいが、そうでないものにはちょうどのサイズ。今も、自分の倍以上の身長と横幅を持つ男と擦れ違う。ここはそういう場所なのだ。耳が尖った者、動物の一部を持つ者、身長が低い者、高い者、体積が大きい者、小さい者。様々だ。
 博覧会だな、とこんな状況に初めて遭遇した時に思ったことを、紫晃は今でも覚えている。
「霧亜」
 名を呼ぶと、彼女がこちらを振り向く。その事実だけが嬉しくて、意味もなく名前を呼んでしまうことがある。この時もそれだ。
「何?」
 本当のことを言ったらきっと怒られる。結構激情型なのだ。
「今度はいつまで休み?」
 だから、適当に質問をでっち上げる。
「今も待機状態やけど?」
「休みじゃないの?」
「休みやったら、そもそもここに来いへんよ」
 それもそうだ。
「でもまあ、そやねえ……私らも昨日帰ってきたばっかやしね。早々お呼びはかからへんやろ」
「だったら、デートしよう」
 とびきりの笑顔で言ってみる。
「……まあ、たまには後輩の息抜きに付き合ったるんも、先輩の役目なんかな」
 ひとつ間を置いての返事。
「なんだよ、それ」
「まんま。ほら、はよ行こ。せっかくのデートする時間がのうなるかもよ」
 彼女もきっと知っているのだろう、と紫晃は思った。どう転んでも、自分が彼女の言葉に逆らえないことを。

 コスモス本部の建物は、幾つかの棟に分かれている。大きく分けると七つの核となる建物があり、それらからいくつもの建物が分岐して大きな建物群となっている。初めてこれを目の当たりにした人は、石英などの柱状結晶が集まったクラスターを思い浮かべるかもしれない。基本色は白に近い半透明。ただし、よくよく見るとそれぞれ色が異なるのが分かる。紫晃の職場はその中でも紫がかった建物の中にある。が、霧亜が先導したのはそこではないと、すぐに見当がついた。
「カフェテリア?」
 背中に訊くと、そうそう、と返事が返ってくる。
 この建物群にはいたるところに、大なり小なりのカフェテリアが設けられている。数百人が収容できる広いところもあれば、十人ほどの席しかない場所もある。この建物群で働く者達は、そんな中から自分のお気に入りの一つを見つけているものなのだ。まあ、大抵は職場から近いところが選ばれているのだが。
 紫晃達の職場の近くにも、数箇所のカフェテリアがある。が、何人かで集まる時などに利用するカフェテリアは限られている。だから、それだけの問いと答えで充分なのだ。そこの収容人員は五十人ほど。インテリアは全て緑と茶色を基調にまとめられている。木漏れ日の気持ちいい森の中、というのがコンセプトらしい。その為かどちらかというとエルフなどの森生まれの種族に人気がある。
「おまたせ」
と霧亜が片手を挙げると、奥の席に陣取った同僚達の姿が見えた。
「……何であんなに揃ってるわけ?」
 自分の職場は、コスモスでも一、二を争うほど人使いが荒いので有名だった。世界規模で仕事があるのに、職場がここにしかなくて、しかも人員が少なかったら仕方あるまい。家にいるよりも、職場にいるか、出張しているか、とにかく家にいない時の時間のほうが多い。有給は溜まる一方だ。それなのに、こんな時間にこれだけが集まるなんて。
 そこには自分と霧亜がそれぞれ所属するチームのメンバーの他に、もう一チームが揃っていた。これで自分の課のチームが半分近く揃ったことになる。
「おっそーい」
と声をあげたのは、霧亜のほうのチームメンバーのサリスだった。薄紫色の髪が揺れている。
 彼等の陣取っていたテーブルは、大きな丸テーブルを二つ、つなげものだった。テーブルの上にはポットが三つと、カップが人数分。椅子に座っている者もいるが、何故か立っている者もいる。それもいつものことだ。
「一体どういう風の吹き回しでこんなに揃ってるわけ?」
 ふくれっ面のサリスの頭に軽く頭を置いて、一同を見回しながら訊く。まだ、自分のチームのリーダーである洸流に呼ばれたとしか聞いていない。
「今度のお休みのことですよ」
と口を開いたのは同じチームの翠戒。彼は自分の嗜好を知っているので、まだ何も言っていないのにコーヒーを淹れてくれた。黒い水面のカップが前に差し出される。
「休み?」
「そうだよ。ほら、昔と比べて最近はかなり仕事にひと段落がついてきただろ。発生件数だって、昔と比べたらだいぶ少なくなってきた。だから、まとまった休みが貰えるかもしれないって、もっぱらの噂じゃないか」
と返事を寄越したのは、やはり同じチームの熾志。見た目が子どもの上に、こういう言い方も子どもっぽい。それを指摘すると烈火のごとく怒り出すのだが、それもまた子どもっぽいと本人は気付いているのか、いないのか。
「ああ、あれね」その噂はすでに紫晃の耳にも入っていた。
 彼等の部署は休みがとりにくいことで有名だった。部署人員に余裕があれば交替で休みをとることも可能だが、彼らの課ではそれは無理なのだ。メンバー人数が異なるが、彼らの課の実働部隊は七チームしかない。それで一つの事件処理に日数がかかるとなれば、交替してなどほとんど無理である。休みと言っても、長くて二日が関の山。まとまった休みなど、こちらに異動になってから一度も経験してこなかった。
「ガセネタじゃないのか?」
 こともなげに言うと、
「でもでも、ほんとだったらどうするの?」
 手を払いのけたサリスが言う。熾志も大きく頷く。
 なるほど、と紫晃は思った。どうやらこのメンバーを集めたのはこの二人らしい。霧亜を見ると、すでにサリスの隣の空いていた椅子に座って、にこにこと事の成り行きを見守っている。自分を呼び出した主と言われた洸流も、憮然と熾志の隣の席に座っていた。
 また、なるほど、と思う。霧亜が洸流の名を出したのは、熾志やサリスの名を出しても自分が腰を上げないと考えたからだろう。そして、自分でもまたそうなっただろうと考える。しかし、相手が自分のリーダーである洸流なら。今の状況がその考えの正しさを証明していた。
「ほんとだったら、とりあえず寝る」
 空いていたサリスの隣の席に腰掛けながら、紫晃は半ば本気で答えた。すぐに不満の声が二つあがる。
「なんでなんで、もったいないよ。せっかくのお休みだよ? それもまとまって、もしかしたらみんな一緒に取れるかもしれない」
 まさかそれは無理だろう、と思う。それが顔に出たのか、先ほど以上にサリスがふくれっ面をした。
「もしかしたらだよ。たった一日でもいいんだよ。ねね、知ってる?」
「何を?」
「他の部署の人達って、慰安旅行っていうものをしてるんだって」
 もちろん紫晃は知っていた。ここに異動になる前は、年に一回、そういう部署内の親睦を深める旅行をしたものだ。旅行でなくても、色々なイベントが行われていた。が、今の課にはそれがない。なくてもいいと紫晃は思うのだが、目の前の少女はそうではないらしい。
「泊りがけで旅行に行って、親睦を深めるんだって。わたし達のとこではそれをしてないでしょ、ね。泊りがけなんて贅沢言わないから、一日みんなで出かけようよ」
 ね、と言ってくる少女の言葉に大きく頷くのは、残念ながら熾志しかいなかった。が、大きく反対することも、誰もしていなかった。あの口煩い洸流も、こういうことに無関心の筈のルースも、黙って事の成り行きを見守っている。きっと、なんとなくその気持ちが分かるからだろう。
 明日も知れぬ命だからこそ、時には鬱陶しくなる筈のしがらみも手放したくなくなる。特にこの少女はそうだろう。
 サリス。それは彼女の本名ではない。霧亜が名付けた名前。彼女は仕事の最中霧亜が拾ってきた少女だった。外傷はないものの、昏々と眠り続けた少女。調べても付近で彼女に似た少女の捜索願も行方不明者もいなかった。そして、コスモス系列の病院に入院させて数日後、目覚めた少女には記憶がなかった。どうしたものかと霧亜が本部に指示を仰ぐと、何故かここに連れて行くよう指示が下った。そして現在、彼女は自分達の同僚として霧亜の下で働いている。今も記憶が戻る気配は見せない。だからこそ、彼女は思い出作りに執着する。まるで、失くした記憶の隙間を埋めなおすように。
「じゃあ、まあ、本当に休みがまとまって取れたらだぞ」
 仕方なく、溜め息とともにそう言うと、一転、少女は満面の笑みを浮かべた。
「絶対だよ、絶対。部屋でお昼寝なんて駄目だよ。フフフ、ほんとはもう、行くとこは決めてるの」
 本当に嬉しそうに、年相応の笑顔を浮かべてサリスは言って、テーブルの上に散らかしていた様々なパフレットの群れを指した。それにはもちろん紫晃は気付いていた。なんとはなしに見ていたが、それらはこのアトリウムにある観光島や施設の案内だった。海の上に浮かぶ島という幻想的な立地条件は、浮遊島群を一大観光地として成り立たせるのに十分なものだった。故に、このアトリウムにも星の数ほどの観光客向け施設がある。確かに、アトリウム内の施設なら、日帰りで楽しむことも充分可能だろう。
 サリスが手に取ったのは、一枚の地味なパンフレットだった。
「何これ?」
「アトリウム連合景観保護地域指定カナン自然公園付属植物園」
「は?」
 サリスの一気に言った名称に、思わず眉をしかめる。
「別名天上楽園。ほら、昔からの植物とかを集めて保存している、古代文明、いや、浮遊島群が存在するようになってからずっと保存され、ずっと維持されている植物園だよ」
と答えをくれたのは、霧亜の向こう側に座るシオンだった。彼というか彼女というか、シオンはまだ性別が確定していない。性別が後から確定される種族なのだ。顔立ちも、中性的。
「あの天上楽園か」
 その歴史は長く古い。そもそも管理しているのが長命のエルフなどで構成されているのだから、それも頷ける。
「今度長い休眠に入るそうなんです。ずっと人が来園していると、色々なものが持ち込まれますからね。そういうものを調べたり、色々するのに。そうなると、まあ、彼らの感覚ですから、次に開園されるのは、短くても五十年後ぐらいでしょうねえ」
 サリスと見た目同い年ぐらいだというのに、彼女よりも格段に落ち着いた雰囲気を持つルースが口を開いた。
「色々って、例えば?」
 ルースの後ろに立つハリーが問いかける。彼は紫晃とほぼ同い年ぐらいの外見をしている。が、ルースには頭が上がらないのだ。この二人は、二人だけでチームを組んでいて、やはりリーダーはルースがしている。
「まあ、一番多いのは種ですね。靴の裏にくっついて余所の種が入ってきて、元々ある植物の領域を侵したりします。あるいは、新しい植物が生まれていたり、余所から鳥が棲みついていたり。規模も大きいですし、そういう調査などでしょうかね」
「なるほど」
 ハリーだけでなく、熾志まで頷いている。
「で、ここに行きたいと?」
 こくん、とサリスは頷く。
「ここにいるみんなで?」
 こくこく、と頷く。
「で、他の奴は同意してるわけ?」
 洸流は憮然と、
 翠戒は涼しげに、
 ルースは仕方ないという風に、
 ハリーは楽しそうに、
 シオンは微笑を浮かべて、
 熾志は当然というように、
 そして、霧亜は優しく微笑んで頷いて、
「後は、あんたが頷いてくれるだけやなあ」
 だから、その笑顔に逆らえるわけないじゃないか。紫晃は心の中で溜め息を吐いて、
「本当に休暇が取れたらだぞ」
 カフェテリアに、歓声が響いた。

 D暦二九九九年夏。
 ルース。ハリー。洸流。熾志。翠戒。シオン。サリス。そして、紫晃と霧亜。
 この時は幸せだった。死が隣にあったけれど、それでも幸せだった。
 しかし……――


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by 蓮